
山の名から、別名を亀山城ともいう。
浜田の地には、天正15年(1587)に吉川元春の次男繁沢元氏が城を改修して拠点としており、その城は浜田城の付近にあったようだ。伝わるところによると、浜田城は、その前身の城を取り込む形で新たに築城されたという。
浜田城が築城されたのは江戸時代で、元和5年(1619)に古田重治が伊勢松坂から5万4千石でこの地へ移封され、翌年に築城が開始された。そして、3年後の元和9年(1623)には、城下町も含めて整備が完了したいう。
ちなみに、重治の先代は兄重勝で、同時代には織部の官職名で知られる古田重然がおり、重勝と重然はしばしば混同されるのだが、同族ながら別系統の家である。
その後、古田重治から重勝の子繁恒へと家督が譲られたが、重恒には子が無く、お家騒動と無嗣によって慶安元年(1648)に改易となり、翌年に松井松平康映が浜田藩主となった。
以後、松井松平氏が5代続き、次いで本多氏、再び松井松平氏、越智松平氏と、親藩や譜代が治める城となっている。これは、幕府の仮想敵国であった長州藩に対する抑えとして、浜田の地が重要視されていたためのようだ。
しかし、徳川慶喜の異母弟で、越智松平家に入って家督を相続していた武聰は、肝心の慶応2年(1866)の第二次長州征伐の際に病で指揮が執れず、村田蔵六と名乗っていた大村益次郎を参謀とする長州軍が、津和野藩領を通過して浜田藩領へ侵入すると、家臣山本半弥などが6月から7月に掛けて益田や大麻山で迎え打ったが、大敗を喫した。
これを受け、浜田藩は長州軍と和睦交渉を行ったものの、合意には至らず、藩全体で浜田から退去することを決断し、城は城下町と共に火を放たれて灰燼に帰したという。そして、その後は浜田が長州藩の占領地となり、藩の政庁が飛地であった美作の鶴田へ移されたため、城が再建されることはなかった。
城は、北には日本海の松原湾の入江が控え、西から南に掛けては浜田川が廻る、標高68mの細長い独立丘陵上に築かれた平山城である。松原湾の北には、北前船の寄港地となっていた外ノ浦があり、浜田川の水運と併せ、経済的見地を重視した城なのだろう。
城の構造は、亀山の北西寄りの頂上に本丸と、その西隅に三重の天守を置き、本丸と一段下がった東南中腹の二ノ丸の間には、2つの門と大きな桝形の石垣が設けられていた。その先の二ノ丸には番所、硝煙櫓等が置かれ、中ノ門から外側の山麓にあった三ノ丸には、御殿、米倉、潮見櫓が建てられていたという。そして、川と海がない東側には、30mから40mという幅が広い内堀を穿ち、その先に重臣の武家屋敷を挟んで外堀が配され、当時は海城に近い形態だったようだ。
現在は、二ノ丸跡に護国神社があり、そこには石見人や第二次長州征伐の浜田藩の苦悩に対する司馬遼太郎の随想碑もあった。ただ、この護国神社付近までは、あまり城としての雰囲気や遺構を残しておらず、城門跡にもそれを示す碑が目立つ程度である。
しかし、本丸へと繋がる城門から上は、急に石垣造りの城という存在感が漂っており、桝形を通って本丸へと出た時には、完全に城跡という雰囲気になっていた。これほど登るにつれて急に表情を変えていく城も珍しい。
最終訪問日:2001/10/27
海が近く、川がうねる場所にある丘陵で、どう見ても城地として適地ですね。
元和偃武以降に築かれた数少ない城というのにも、納得がいきます。
ただ、江戸時代に落城した数少ない城でもあるんですよね。
その辺りは、なんとも歴史の皮肉を感じます。