Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

気比神宮

 越前国一宮で、延喜式にも名神大社として記載されている由緒ある神社。旧社格官幣大社で、神社本庁の定めたいわゆる別表神社のひとつである。気比の字は、正式には気を旧字体で書く。

 主祭神は、天筒の峯より境内の土公の場所に降臨したという伝承を持つ伊奢沙別命(イザワケノミコト)である。伊奢沙別命は太古より崇拝されており、社殿が建てられて神社としての体を成したのは大宝2年(702)であるが、社殿を持たない古代神道としての斎地は遥か古代からあったようだ。日本書紀にもその存在が窺える。

 伊奢沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも呼ばれ、その字が表すように食に関する神であったようだ。だが、日本書紀神功皇后敦賀を出航地として使ったように、敦賀畿内の北の玄関口として重要視された土地であったため、祭神の性格とは別に、気比神宮は次第に外交に関する祈願所という役割も担うようになった。

気比神宮拝殿

 宮の由緒によれば、仲哀天皇が即位後に親謁して国家安泰を祈願し、その后である神功皇后も、三韓征伐の時に妹の玉妃命と武内宿禰命を従えて参拝したとされる。また、度々訪れた渤海使のための客館も、神宮の神領である気比の松原に建てられていた。平安京遷都後は、更に都も近くなり、より玄関口としての性格を強めたことから、航海の安全を祈願する宮という役割も加わり、遣唐使の安全祈願なども行われたという。

 朝廷から神宮への崇拝の歴史は古く、持統天皇の時代から封戸の寄進が行われ、神宮の社殿修造も文武天皇の勅命であり、その後も勅命によって境内の整備が行われている。また、神功皇后参拝の際、笥飯大神が玉妃命に憑依し、凶賊は自ら帰順するだろうとの御神託をしたことから、社殿修造を機に仲哀天皇神功皇后が合祀され、2人の子である応神天皇仲哀天皇の父である日本武尊、玉妃命、武内宿禰命も後に四社之宮として祀られた。延喜式では、この7柱全てが名神に列している。

 このような崇拝を背景として、封戸や神領の寄進などが続いた気比神宮は、次第に他の大寺や古社と同様に宗教勢力としての性格を持つようになり、中世になると、北陸道総鎮守と呼ばれるようになったという。それは名分的な呼称ではなく、全国の大きな神社がそうであったように、気比神宮神仏習合による神宮寺を擁し、そこに属する多くの僧兵を抱えた立派な宗教政治勢力であり、実力的な裏付けを持った呼称であった。

気比神宮由緒

 この頃の神領は、南北朝時代南朝方に属して金ヶ崎城の籠城に参加したことで減らされたものの、それでも24万石に及んだという。しかし、信長の越前侵攻に抗したため、社殿や寺坊をことごとく失い、祭祀は一旦途絶えてしまった。その後、江戸時代になり、越前松平藩を興した結城秀康によって慶長19年(1614)に再興され、今に至っている。

 現在の気比神宮は、国道8号線という北陸の大動脈が眼前を横切ってはいるが、重要文化財の大鳥居をくぐって杜に守られた境内へ入ると、嘘のように空気が落ち着く。空襲で施設のほとんどを焼失したため、社殿などは昭和になってからの再建で、四社之宮も平成になってからの再建らしいが、さすがに大きな神社だけあって、拝殿の構えなどは非常に重厚だ。

 ただ、大鳥居から入って正面に拝殿が無く、左に折れたところにあるので、なんとなく参道が短く感じ、少しこじんまりとした印象が残った。これは、運悪く参道右手側の社務所か何かの施設が工事中だったので、その圧迫感があったからかもしれない。境内の整備がもっと進んだ時に、もう1度じっくりと訪れてみたい神社である。

 

最終訪問日:2010/10/11

 

 

国道8号線の巨大な交差点前に鎮座するというのが、なんだか古代の陸海の交点を象徴するようですね。

それでいて、しっかり杜の静けさがあるのが印象的でした。