Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

比叡山延暦寺

比叡山延暦寺根本中堂

 最澄が開いた天台宗の総本山。

 最澄比叡山を開いたのは、延暦7年(788)で、自作と伝えられる薬師如来立像を本尊として、現在の根本中堂の地に一乗止観院という庵を建てたのがその最初だが、もともと比叡山というのは、自然信仰の対象とされる山でもあったという。その信仰の名残は、山麓日吉大社に見られるが、日吉大社自身も延暦寺の勢力が大きくなるにつれて神仏習合が進み、延暦寺とは密接な関係を持つようになっていった。日吉大社の参道付近は、日吉の馬場として石垣が見事な景観を成しているが、これも老齢で比叡山を下りた老僧が、隠居の為に草庵を建てのが始まりで、両者の関係がいかに深かったかを物語っている。

 開山となった最澄は、還学生として明に渡ると、天台教学や密教、禅などを学んで多くの経典を書写し、帰国後はその研究に没頭する一方、桓武天皇やその側近などの帰依を受け、延暦25年(806)に天台宗として公認を得た。また、最澄の死後には、延暦寺の寺号と正式な僧を養成できる大乗戒壇が許可され、延暦寺は晴れて官寺となっている。この官寺化により、北嶺とまで呼ばれた平安仏教の中心という地位が決定付けられた。

 ちなみに、官寺の多さから仏教勢力と近しかった平城京とは対照的に、平安京は、遷都後に官寺と認められたのは延暦寺だけである。洛中に寺院は多いが、全て有力者の私寺であって、しかも官寺である延暦寺も洛中にはなかった。このことから、平安京の造営は、仏教勢力との距離を置くためだったとする説に説得力がある。だが、延暦寺も南都の寺院と同じく、中世には王城の守護として、山門として、強大な勢力を持ち、立派な政治勢力と化した。

 このように、中世を通して延暦寺の勢力は強大で、中央の情勢に介入することもしばしばあり、室町幕府6代将軍足利義教時代の永享7年(1435)や、半将軍とまで呼ばれた管領細川政元の時代の明応8年(1499)、上洛を成し遂げた信長の時代の元亀2年(1571)に、火災によって伽藍が焼亡してしまっている。ただ、義教時代の焼失は、義教への抗議による放火であり、信長による焼き討ちも、実態はイメージほど多くは焼失しなかったようだ。いずれにしろ、比叡山が僧兵という軍事力を抱え、中央に対してかなりの発言力を持っていたのは間違いない。

 信長による焼き討ち後、信長の在世中は赦されず、一時的に勢力は大きく後退したが、次の政権を担った秀吉とは和解し、天正12年(1584)に復興が許されている。ただし、僧兵を置かない事が復興の条件であり、その結果、近世以降は再び政治勢力化することはなかった。

 政治的にも強大な影響力を持っていた延暦寺だが、仏教界に与えた影響も当然ながら大きく、それぞれの時代の優秀な僧は延暦寺で学んだ者が多い。草創期には慈覚大師と呼ばれる円仁がおり、新たな仏教が誕生した平安時代末期から鎌倉時代にかけては、浄土宗の法然始め、その弟子で浄土真宗を開いた親鸞や、日蓮宗日蓮臨済宗栄西曹洞宗道元など、鎌倉仏教の各宗派の祖である人物や高僧の多くがこの延暦寺で修行していた。その多彩さは、延暦寺と同時期に開かれた高野山を上回るものがある。

 現在の延暦寺は、当時より伽藍の建つ地区は小さくなったものの、境内は山全体に渡って広大で、根本中堂のある東塔エリアを中心として、東塔から西北に少し離れた西塔エリア、北にかなり離れた横川エリアと、大きく3つの区域を持つ。信長による焼討ち後、桃山時代から江戸時代にかけて多くの建物が復興され、国宝である根本中堂を始めとして、建物や彫刻、絵画、工芸品など、国宝や重要文化財のものが数多くある寺院である。

 現地を訪れてみると、やや観光地化しているきらいがあるが、各々の建物は重厚で、特に根本中堂は並みの寺にはない荘厳さが漂っていた。建物自体は江戸時代の再建なので、中尊寺金色堂などよりも遥かに歴史は浅いのだが、やはり、その時代その時代で多くの人が仏教を熱心に研究し、経典の理解に没頭して熟慮を重ね、修行に明け暮れたという、積み重ねた見えない歴史の重みというのがあるのだろうか。

 

最終訪問日:2001/8/29

 

 

根本中堂の荘厳さは、さすが仏教の巨刹というだけの凄みがありました。

ここで瞑想をしたら、何かを得られるんじゃないかと思うほどに。

そういうことにあまり興味がないタチなので、貴重な体験でした。