Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

姉川古戦場

 織田氏と浅井氏が、それぞれ徳川氏、朝倉氏と連合軍を形成し、元亀元年(1570)6月28日に戦った合戦の古戦場。ちなみに姉川の合戦というのは徳川家における呼称で、浅井家では野村合戦、朝倉家では三田村合戦と呼んでいた。

 同年4月の織田軍による朝倉攻めの際、浅井氏が朝倉方について織田氏と敵対したことが合戦の直接の理由だが、一説には、織田氏が朝倉氏を攻める時には、浅井氏に対して事前通告する約定があり、それを破ったために浅井長政が怒って同盟を破棄したともいう。

 浅井・朝倉連合軍は、浅井軍8千、朝倉軍1万の計1万8千、対する織田・徳川連合軍は、織田軍2万3千、徳川軍5千の計2万8千の兵力を動員した戦いといわれるが、この兵力数にも諸説あって確定した数字は出ていない。戦場は、小谷城の南に西流する姉川中流一帯の、西は三田村から野村、佐野の辺りまでで、両軍合わせた4万人以上もの大軍が展開できる広い地域において激しい戦いが繰り広げられた。

姉川の合戦布陣図

 合戦は28日の早朝から始まり、野村に陣した浅井勢が相対する織田軍に対して奮戦し、織田軍の13段あった構えの11段までを破って数町押し込んだが、朝倉軍は正対する徳川軍の榊原康政率いる別働隊に側面を衝かれた事で乱れ、横山城の抑えに配してあった美濃衆が加勢したことによって織田軍も勢いを盛り返し、浅井・朝倉連合軍を潰走させて織田・徳川連合軍の勝利に帰したとされる。

 しかし、織田・徳川連合軍の勝利には違いないとしても、辛勝に近い程度の勝ちだったのではないだろうか。織田家関係の史料は、合戦については全体的にあっさりとした印象で、数ヶ月前に撤退に追い込まれた因縁の相手に大勝利したという雰囲気からはやや遠い。また、浅井氏の領土を分断する横山城を得たのは間違い無く大きな成果ではあるものの、朝倉氏滅亡の際に見せたような激しい追撃も行われず、戦後も浅井軍や朝倉軍が盛んに運動し、尚且つ滅亡まで数年かかっている事を考えると、とても大勝利であったとは考えにくいからである。

姉川の合戦の古戦場碑

 穿った見方をすれば、後年の江戸幕府による徳川軍の誇大化、いわゆる徳川史観の影響があったのかもしれない。いくら三河兵が強いといっても、全体の兵数からみればその数は多くないというのに、存在感がちょっと大きすぎるようなきらいもあるからだ。

 合戦は、前述のように姉川一帯の広い地域で行われたが、織田勢と浅井勢が激突したといわれる野村地区に古戦場碑がある。場所は、国道365号線の北国脇往還に架かっている野村橋のすぐ近くで、今では長閑な田園地帯であるが、周辺には血原公園や血川といった激戦を物語る地名が残っており、古戦場碑を除けば、地名が凄惨な戦いを今に伝える唯一のものかもしれない。

 

最終訪問日:2001/8/31

 

 

地図に示された位置をもとに探したんですが、その地図にプリントされた位置が間違っていたのでなかなか発見できず、近くの国友鉄砲の里資料館で買った本に位置が載っていたので、3回目にしてようやく発見できました。

今なら、Google先生のMapで一発なんよな~

時代の進化を感じます。