Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

多賀大社

多賀大社の神門と太閤橋

 延喜式に小社と記された式内社であり、神社本庁の定める、いわゆる別表神社のひとつで社格も高い。

 社伝によると、伊邪那岐大神と伊邪那美大神が、国生みのの後に神社の東にある杉坂山に降臨し、多賀の地に静まったのがその由来という。

 史料に最初に出てくるのは「古事記」で、「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す」とあるが、日本書紀では淡海を淡路としており、どちらが正しいのかは分からない。だが、多賀大社が有史以前から存在していたことを示すのは間違いなく、創建時期はよほど古いと考えられる。一説には、周辺の豪族であった犬神氏の氏神を祀っていたともいう。

 奈良時代から平安時代にかけては、公家からの信仰が厚かったが、武家が政権を握った鎌倉時代からは、武家の尊崇も集めた。また、多賀大社にも、かつて神仏習合による寺院があったのだが、その不動院の坊人が全国を行脚してお札を配り歩いた結果、多賀信仰が全国の庶民へも広がりを見せるようになる。これにより、お伊勢参りや熊野詣に匹敵するほど、お多賀さん参りもブームとなった。江戸時代に造られた一ノ鳥居が、大社からかなり離れた中山道の通る高宮にあることからも、お多賀さん参りがブームとなって盛況だった当時の様子を偲ぶことができる。ちなみに、多賀大社ではお守りとしてしゃもじを授けていたようで、そのお多賀杓子がオタマジャクシの語源になったという。

 現在は、さすがに江戸時代ほどの参拝客はいないが、祭神の2柱は神話時代のすべての祖となる神であると同時に夫婦神であることから、延命長寿と縁結びの神様として多くの人に信仰されている。特に長寿に関しては、鎌倉時代の僧重源が長寿を願って参拝した伝承が残るなど、相当古くからご利益として知られていたようだ。

 入り口の独特な太鼓橋を渡って境内に入ると、大社の境内はかなり広く、威容が感じられ、社殿などの雰囲気も厳かだ。また、境内に散在する摂社や末社は15社もあり、さすがは大社と呼ばれるだけの風格があった。それ以外で気がついたのは、参拝者への施設が充実していたところで、お参りだけではなく、御祓いや結婚式などがかなり多いのかもしれず、今でも多くの人の生活の中で信仰されている神社なのだと感じた。

 

最終訪問日:2001/8/27

 

 

大社という風格は感じるんですが、どことなく身近さも感じる神社でした。

門前町もあり、詣がひとつのレジャーでもあった江戸時代の残り香があって、良い雰囲気でしたね。