Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

伏屋城

 岐南町の伏屋地区にあった平城。

 美濃攻略を目指す信長が、秀吉に命じ、永禄年間(1558-70)に築かせたという。

 秀吉は、木曽川周辺の土豪の協力を得、用材を筏に組んで木曽川に流し、一気に運び込んで短期間のうちに砦のような城を築いたといい、その伝承のため、一夜城とも呼ばれる。

 後には、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦で、伏屋市兵衛が守備しているのが見えるが、これ以降は城が史料に登場せず、しばくして廃城になったようだ。ちなみに、この伏屋市兵衛は、これより前に濃尾衆主体の織田信忠軍に属していたと史料にあるので、この伏屋を本貫とする在地豪族なのだろう。

 多少なりとも歴史に詳しい人ならすぐ分かるが、この伏屋城の築城伝説は、長良川沿いの墨俣城と全く同じである。一夜城伝説自体が、史実をどの程度反映しているのか諸説があるというのは横に置くとして、秀吉が自らの成功例を模倣してもうひとつ城を築いたのか、伝承だけがコピーされたのかは、ちょっと判断のしようがない。

伏屋城説明板

 墨俣の一夜城のほうが、有名なのは周知の事実であるが、地図を見ると、当時、信長が本拠を置いていた小牧城と、美濃斎藤氏が本拠を置いていた稲葉山城の間に伏屋城があり、墨俣城には、稲葉山城大垣城を分断するという戦略的価値があるとはいえ、伏屋城も、前線基地としては、喉元に付き立てられた刀のように地勢的にかなり重要であったのではないだろうか。

 墨俣城と違う点として、流路が変わる前の当時の木曽川は今の境川の流路であり、その川の南は尾張国であったことが挙げられる。伏屋城は、今の境川より南にある城で、当時の尾張国であり、墨俣城に比べれば、築城の難易度は低かったのではないだろうか。また、北に木曽川、南に現在の木曽川本流とほぼ同じ黒田川という天然の防衛線まで備えた守り易い城だったはずなのだが、如何せん、城に関する史料が少な過ぎ、当時の城の状況を判断しようが無い。

 武功夜話の真偽と共に議論される墨俣城の史実が、もっと明確になれば、関連してこの伏屋城の築城時の状況も少しは明らかになると思われることから、この時代の新たな史料発掘を願うばかりである。

伏屋城の遺構として唯一残る土塁

 城跡は、現在の岐南町伏屋地区にあったが、地図を見ても、現地を散策してみても、城跡らしい痕跡はほぼ見られない。遺構としては、諏訪神社の100mほど西に残る僅かな土塁跡が唯一のもので、城の説明板もそこに建てられている。

 歴史を調べる過程で知った訳ではなく、何の気なしに地図を眺めていて偶然にも発見した城だが、現地にあった住宅地図には城跡の表示が無かった為、1度目は遺構に辿り着けず、十分に下調べをした2回目の訪問の際にようやく辿り着けた。

 この1度目の訪問時に、城を探しながら伏屋地区をぐるぐると回って気付いたのだが、地区周辺には伏屋姓の人の住宅が多い。この人達は、恐らく伏屋市兵衛かその一族の子孫と思われ、これも城の名残と言えるかもしれない。

 また、同じくこの時になんとか辿り着いた伏屋地区の中心の白山神社と憶念寺には、無造作に伏屋城の想像図が立て掛けられ、そこには秀吉の一夜城と書かれてあったのだが、特に案内板などの類が無かったため、一夜城の伝承のことは現地ではさっぱり分からなかった。後で調べてようやく伝承を知ることができたのだが、墨俣と同様の伝承であり、もう少し知られてもいいのではなかろうかと思う。

 

最終訪問日:2012/5/12

 

 

スマホ以前の時代に、道路地図だけの情報で辿り着くのは無理ゲーでしたね。

伏屋地区は路地が多かったんですが、そんな細い路地なんか載ってないし。

伏屋城みたいに、マイナーな城かつピンポイントの遺構しかない城でも、割と簡単に辿り着けるようになったのは、本当にスマホのお陰ですね。

ありがたい事です。