Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

城ヶ島

 三浦半島の南西の先にある島。

 北西に灘ヶ崎、西に長津呂崎、南に赤羽根崎、南東に安房崎という北西から南東にかけて長細い島で、鎌倉時代からの景勝地であると共に、南の海食岸はウミウ等の鳥の貴重な生息地でもある。自然島としては神奈川県下最大で、面積は0.99km2、周囲約4kmの大きさを持つ。

 城ヶ島の名前の由来は、尉という役職を持つ役人が住んでいたことから、最初は尉ヶ嶋と呼ばれていたらしい。その後、源頼朝もしくはその嫡男頼家が城ヶ島に変えたとも、戦国時代に安房の里見氏が島に侵攻して砦を築いた為に城ヶ島になったともいわれるが、改名に関しての定説は無いようだ。

 島は、鎌倉時代には源頼朝が度々遊覧していることが史料に見えるように、古くから景勝地として知られ、頼朝は城ヶ島と三崎の両方に桜を植え、その景観を愉しんだという。だが、島には風流とは別の一面もあり、三浦半島一帯を領した三浦氏の水軍の根拠地でもあった。さらに、人間の生活の場として見てみると、鎌倉時代よりも遥かに古い歴史があり、島内では弥生時代の遺跡も発見されている。

城ヶ島灯台の夕景

 城ヶ島を水軍基地として使っていた前述の三浦氏は、鎌倉幕府草創の功臣で、鎌倉初期に一度滅ぶが、庶流の家が継承して戦国時代黎明期まで続き、有名な北条早雲によって滅ぼされた。早雲は、その水軍を北条水軍として再編成したことから、城ヶ島は引き続き水軍根拠地として使われることとなり、その結果、北条氏と激しく争っていた房総半島の里見氏の水軍が来襲し、島を奪われてしまったこともあるという。

 北条氏の滅亡後は、北条氏に代わって関東に入部した徳川氏が引き続き水軍の拠点としたが、時代は泰平の世へと向かっており、水軍拠点としての役割は次第に薄れていった。ちなみに、戦国時代真っ只中でも、城ヶ島景勝地であり続け、早雲やその孫氏康が三崎や城ヶ島を訪れて景観を愉しんでいる。

 江戸時代になると、島は大消費都市江戸の食を担う場所として発展し、島民はほぼ漁師で構成されていたという。だが、幕末には異国船がしばしば出没するようになり、城ヶ島に砲台場や見張番所が置かれ、再び軍事の島の色合いを深めた。

城ヶ島に深く湾入している長津呂湾と海蝕崖

 そして、それは明治政府にも引き継がれ、関東大震災後になると、東京湾要塞のひとつとして、三浦半島や城ヶ崎が要塞化されて行く。このような政治的背景があった上、最大7.5mにも達し、最終的に1.4mほどの隆起となった大震災時の地盤の変動で砂浜が減少してしまい、明治から大正にかけて観光地化していた島は、一気に軍事一色の島となった。

 太平洋戦争が終わると、砲台跡が公園として整備されたことも影響し、東京近郊の観光地として再び注目され、油壷からの観光船や京急線の特急などが運行されるようになる。その一方で、増え続ける三崎港の水揚量に対応すべく、その対岸の城ヶ島北岸が埋め立てられ、幾つかの景勝地が消滅した。このように戦後の城ヶ島は、急速な経済発展と開発、そして庶民のレクリエーションの高まりという、昭和の歴史をそのまま島の歴史として刻んだ。

 島を訪れたのは午後6時頃で、もう観光客の数も少なく閑散としていたが、それが逆にかつて栄えた昭和的観光地という空気が漂い、個人的には好きな雰囲気となっていた。現在は渡し舟も復活しており、昼間はもっと観光地然としているのだろう。

 

最終訪問日:2013/5/17

 

 

半島の先端というのは不思議と訪れたくなるものでして、この島を訪れたのもその気持ちの延長線上にあったんですが、絶え間ない強風によって傾いて育った松が生えていたり、水平線と房総半島が見渡せるなど、観光地ながら果て感もあって良かったですね。

また、大地の先端で泊まるキャンプ地としてはかなりロケーションが良く、実際、キャンプをする人も多いようです。