
シトドノイワヤと読む。シトドとは、ホオジロなどの山鳥の小鳥の総称で、頼朝が来た時に洞窟から鵐が飛び立ったことからの名という。
平治元年(1160.1)の平治の乱において、平清盛に敗れた源義朝は落ち延びる途中の尾張で討たれ、その三男頼朝も父とはぐれた挙句に捕らえられた。清盛は当初、頼朝も処刑するつもりであったが、継母池禅尼の懇願で助命され、頼朝は伊豆へと流されることになる。こうして、頼朝が伊豆に根を張ることとなった
その後、清盛一門が栄達して専横を極めると、それを阻むために後白河天皇の第三皇子以仁王が治承4年(1180)に平家追討の令旨を各地に発し、これに応じる形で伊豆の頼朝も挙兵を決め、いよいよ源平合戦の幕が上がることとなる。
頼朝は、挙兵に先立って各地の源氏縁故や平家から冷遇されていた豪族を中心に説得にかかり、千葉氏や三浦氏など有力豪族の賛同を得た。そして、同年8月17日の挙兵において、頼朝軍は伊豆目代山木隆兼を討つことに成功し、この報せを聞いた伊豆や西相模の豪族を配下に加えたが、遠国の豪族は未だ集参せず、この頃の頼朝の手持ちの兵力は、土肥実平などを中心とする中村党を中核に狩野氏や北条氏を加えた3百騎程度であったという。
これに対し、平家の家人大庭景親が3千騎という大軍を率いて伊豆へ討伐に向かっていた。頼朝は、討伐軍に対応すべく23日には伊豆半島東岸の付け根にある石橋山まで兵を進めたが、軍の主力のひとつとなるべき三浦党の軍勢が未だ来着せず、しかも背後からは伊東祐親率いる3百騎が迫るという、圧倒的不利な状況で石橋山の合戦を迎えるのである。
両陣営を見ると、平家軍大将の大庭景親は鎌倉党の筆頭で、隣接する中村党や三浦党とは対立しており、鎌倉党対中村党三浦党連合軍という側面もあったようだ。また、頼朝軍の狩野茂光や宇佐美祐茂は伊豆工藤氏で、頼朝軍後方に迫る祐親と同族であり、こちらにも主導権争いの様子が窺える。
つまり、石橋山の合戦の表層は平家対源氏の遺児という戦いであったが、内実は伊豆相模国内の主導権争いが多分に含まれており、この部分も、石橋山の合戦の要素としては重要なのだろう。
23日の天候は運悪く雨で、これによって増水した酒匂川を三浦党が渡れないばかりか、三浦党の増援を知っていた景親は決着を急ぎ、暴風雨の中、夜襲を仕掛けた。そして、頼朝軍側では各々が奮戦するも、圧倒的な兵力差は如何ともし難く、惨敗を喫し、主従は7騎とも6騎ともいわれる少数で土肥椙山の山中に潜んだのである。
当然の事ながら、景親は大規模な捜索を行ったのだが、景親の軍中に在った梶原景時が頼朝一行を発見しながら通報せず、これにより頼朝は九死に一生を得た。その逸話があったとされるのが、この鵐ノ窟である。
この鵐窟での逸話は、軍記物の「源平盛衰記」には載っているが、正史とも言える「吾妻鏡」では、洞窟に隠れるシーンは無い。共通しているのは、梶原景時が頼朝一行の居場所を知りながら報告せず、他の峰へ追手を導いたということである。
ただ、真実はともかくとして、源平盛衰記での景時の言動や、景時が居ないと言ったにもかかわらず尚も怪しむ景親の様子は、非常に劇画的で緊張感があり、この辺りはさすが軍記物といったところだろうか。ちなみに、鵐ノ窟というのは真鶴にもあり、かつては真贋論争もあったらしい。
鵐ノ窟近辺は、全くの山中で、木々が深く、いかにも隠れ潜む場所といった感じである。訪れたのは日没後であったが、もし昼間だったとしても、それほど明るくはならない場所なのだろう。
かなり暗い中、岩窟を覗くと、中には石塔や地蔵が並び、岩窟中央からは滝のように水が滴り落ちていた。このような纏わりつく湿気の中、追手の目に怯えながら潜んでいた頼朝主従は、如何なる心境だったのだろうか。
そのような状況の中、見逃してくれた景時に頼朝が感じた恩義は、相当のものがあったはずで、後の景時の重用にも、潜伏場所という言葉が余りにも相応しい鵐ノ窟を見れば、自然と納得がいく。そういう人情の機微すらも感じさせるほど、人が隠れるには厳しい場所だった。
最終訪問日:2013/5/18
訪れた時は、鵐ノ窟とその上の城山山頂にある土肥城へ同時に行く予定だったんですが、しとどの窟バス停に着いたのはとっくに日没を過ぎた時間で、すでに薄暗かったですね。
両方は間違いなく無理で、どちらか一方へ行って辛うじて見えるかどうかという感じでした。
なので、下りということと距離の近さから、鵐ノ窟へダッシュして向かい、なんとか肉眼では見える程度だったので見て回われましたが、写真はお察し。
上の碑の写真が写ったぐらいで、岩窟なんて真っ暗でした。
肉眼の性能は凄いということを改めて実感しましたね。