大内氏と尼子氏の間で争奪が行われた山城。
鏡山城の築城時期は不明だが、発掘調査によれば、南北朝時代の築城と推測されているという。築城者も不明であるが、その南北朝時代に安芸国の切り取り次第を認めるという条件で北朝方に転じた、大内氏によるとの説もある。
文献上の初見は、寛正年間(1461.2-66)頃のものと推測される「細川勝元感状写」で、その直後の応仁元年(1467)から始まる応仁の乱の際も、鏡山城は争奪の目標となった。細川勝元が書状で触れていることから解るように、応仁の乱前後は、城周辺の東西条の領地を巡って大内氏と安芸武田氏、そして安芸武田氏と結ぶ細川氏の間で、争奪が複数回あったようだ。
その後は、安芸東部に勢力を伸ばしてきた大内氏の支配拠点となり、応仁の乱の前後に仁保弘有や安富行房、戦国時代初期に陶興房が東西条代官に任ぜられたことが見えるように、大内氏が重臣に差配させるという重要拠点であった。ただ、任ぜられた代官は山口に在ることが多く、実務は蔵田氏など小郡代と呼ばれる在地の豪族が担ったと見られる。


また、文明10年(1478)6月20日付の大内政弘の署名がある城掟「安芸国西条鏡城法式条々」が残っており、これは、現存する最古の城掟という。
その後、中国地方では出雲で尼子氏が勃興し、大内氏と尼子氏の熾烈な戦いが各地で繰り広げられるようになって行くが、鏡山城も、大永3年(1523)に尼子方の安芸国人衆の攻撃を受けている。
この攻城軍の中には、幼主毛利幸松丸の名代として参陣していた毛利元就がおり、攻防が膠着状態に陥ると、城主藤田信房の叔父直信に対して家督継承を条件に調略し、直信の守備する二ノ丸への侵入に成功した。そして、一昼夜に渡って本丸の信房を攻撃し、家臣らの命と引き換えに信房を自刃させ、落城させたという。
ただ、これは軍記物に記された話であり、平賀弘保が経久から最大の褒賞を得ていることから、実際には弘保が最も活躍した可能性が高い。


伝わる話に従うと、寝返った直信は、経久から寝返りを非難されて処刑され、元就にも恩賞は与えられなかった。これが、元就の経久に対する不信感となり、やがて大内方へ帰参する要因のひとつになったという。そして、この寝返りへの反応として、尼子氏が天文9年(1540)からその翌年まで、元就の居城吉田郡山城を攻囲したが、元就と大内軍が連合してこれを破り、さらには大内軍による同12年(1543)の月山富田城攻めへと繋がって行くのである。
落城後の鏡山城は、そのまま尼子氏が支配拠点として活用したようだ。しかし、その期間は短く、大内軍は翌々年の大永5年(1525)に鏡山城を奪回している。
鏡山城は、敵軍が大軍を展開しやすい大きな盆地の中央部に在る上、山容もそれほど厳しくない独立丘陵で、包囲によって孤立しやすいという弱点があった。この弱点から、支配拠点に適さないと考えた大内義興は、鏡山城に代わる新城の築城を命じ、曾場ヶ山城、次いで槌山城が西条盆地の支配拠点となっている。


こうして、役目を終えた鏡山城は、この新城築城によって廃されたようだ。その時期は、曾場ヶ山城が築かれたといわれる大永7年(1527)頃だろうか。
城の構造は、西の後背部を巨大な堀切で防御した最上部を削平して2段構成とし、櫓台を持つ御殿場と呼ばれる郭を最上部西端の上段に置き、そのすぐ下に最上部下段としての、中のダバという細長い郭を設け、この2郭が本丸相当となる。このダバというのは、段場が転訛したものだろうか。
そして、そこからやや下がった中腹に、馬のダバと呼ばれる第3郭、大手門を持つ第4郭を最上部の南東に、下のダバと呼ばれた接客空間と推測される比較的大きな第5郭を最上部の北東に配置していた。また、主郭部の北西から南東に掛けて畝状竪堀を構築しており、防備を固めた様子が窺える。さらに、竪堀群の先の南麓には南郭群を設けており、これらは常駐を命じられていた、東西衆と呼ばれる在地勢力の居住空間だったのかもしれない。


現在の城跡は、鏡山公園として北麓が開発されており、駐車場もある公園から城跡に入る方が簡単だが、当時の城は大手門が南にあることから解るように、南が正面であった事に留意する必要がある。この南側にも登山道があり、あえてこちらから登るのも良いだろう。
城内主郭部は、豪雨災害によって崩落している部分があるようで、全面的にブルーシートが掛けられていたほか、一部は立ち入り禁止区域となっており、散策には注意が必要だった。また、登山道と主郭部以外は、木々が繁茂しており、周囲に張り巡らされていたはずの畝状竪堀は、明確に確認できない部分が多い。
それでも、主郭部の縄張を割と明確に掴めるほか、城内の井戸も多くが残っており、当時の籠城の様子を想像することは容易い城である。
最終訪問日:2020/11/8
訪れた日が日曜という事もあって、家族連れがわんさかいる中での散策でした。
鏡山城の主郭部でも数組がお弁当を食べていて、ハイキングにはちょうど良い高さなんでしょうね。
西条盆地の方には親しまれているお城のようです。