Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

鞆城

 備後最大の港湾都市であった鞆を押さえる城。

 鞆は、古代から潮待ち湊として栄えていたが、南北朝時代初期頃に鞆の東南端のすぐ先にあった大可島に城が築かれたこともあり、陸側に城は無かった。鞆城の創始と見られる城砦が築かれたのは天文22年(1553)で、毛利家臣の渡辺房が鞆要害として工事を行っていることが見える。

 渡辺氏というのは、その一字名から、嵯峨源氏渡辺綱の後裔というのは明らかだが、備後入部以前の事跡はよく判っていない。

 室町幕府草創の頃に備後国山田荘の地頭職を得たことで、備後との縁を持ったのだが、その後の没落などもあり、備後にしっかりと根付いたのは、房の父とも祖父ともいう兼の時代であった。当時は、備後守護の系統である備後山名家に属しており、その命で鞆から5kmほど北西の熊野に入部し、一乗山城を築いたという。

当時の石材で復元された鞆城の本丸石垣には印が刻まれている

 その後は、他の備後の中小豪族と同様に、大内氏の勢力伸張に伴って大内氏に属し、尼子氏が備後に勢力を伸ばすと尼子氏に従っていたが、後には再び大内氏に転じたようだ。しかし、天文20年(1551)の大寧寺の変大内義隆陶隆房(晴賢)に討たれ、実質的に大内氏が滅んだことから、やがて毛利氏に通じるようになったと見られる。

 鞆要害の築城年は、毛利元就が晴賢を破る厳島の合戦の前々年だが、房の活動は、すでに毛利家臣としてのものであった。

 鞆要害築城までの鞆の防衛は、海側の大可島城を支配下に置いていた因島村上氏が担っていたが、鞆要害が築城されたということは、陸側の領主である渡辺氏もその責を担ったと言うことができる。この背景としては、築城前年の志川滝山合戦の影響があるのかもしれない。

鞆城から右手の鞆ノ浦と左手の大可島城を望む

 志川滝山合戦とは、大内義隆の横死後、反陶勢力の討伐に忙殺される晴賢を横目に、備後へと支配圏を拡げつつあった毛利氏に対し、尼子氏の配下にあった宮氏が抵抗した戦いなのだが、志川滝山城神辺平野のすぐ北にあり、鞆からそう離れていない場所にある。合戦は、毛利氏の勝利に帰しているのだが、尼子氏の逆襲に対する備えと、領国の一円支配体制の確立のため、鞆ノ津の陸側にも拠点が必要との認識があったのだろう。

 鞆城はその後、信長によって元亀4年(1573)に京を追われていた足利義昭が、天正4年(1576)に毛利氏に援けを求めたため、2月に紀伊から鞆へ下ってきた義昭の在所となった。この時に城の普請もあったようで、築城年をこの年とする説もある。また、義昭の接待役と警固には房の子である元が命じられ、大可島城主村上亮康と共に任にあたった。

鞆城の復元石垣と解説板

 ちなみに、鞆にいた時代も義昭は引き続き征夷大将軍の地位にあり、将軍としての政務も遂行したため、現在では鞆時代を鞆幕府とも呼ぶ。また、初代将軍の足利尊氏が、九州から勢力を盛り返した際、この鞆で新田義貞討伐の院宣を受けており、室町幕府は鞆に興り鞆に滅んだとも言われる。

 義昭の滞在は6年に及んだが、天正10年(1582)の本能寺の変後に津之郷へと移り、鞆城は毛利家臣の城代が在城したという。

 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後には、広島城に入部した福島正則が支配し、領内6支城のひとつとして大可島城と併せる形で大規模に拡張修築が行われた。この工事は、慶長14年(1609)の段階でもまだ続いていことが史料に見え、城を任された福島家臣大崎長行も、工事のために主に三原城に在り、実際の在城期間は短かったようだ。

鞆城本丸の石塁

 だが、鞆城の規模の大きさ故に幕府にも目を付けらてしまい、それを恐れた正則が、元和元年(1615)の一国一城令に先駆けて廃城にしたという。ただ、遺構も城の建物などはそのまま残っていたようで、水野時代は奉行所として使われていたことから、建物もそのまま流用されていたと見られる。

 城の構造は、鞆の湊のすぐ北の丘陵頂上を本丸としたのは間違いないが、現地案内板では、壮大な二ノ丸、三ノ丸が築かれたことだけが記されており、破却時期が早かったためか、不明な点も多い。同じく案内板には、城の東端を福禅寺、北端を沼名前神社の参道としており、主郭のある丘陵を中心として、周囲を平地の郭で囲むという輪郭式の城だったのだろう。

 また、福禅寺のすぐ南は埋め立てで陸繋島化した大可島であり、その台上の大可島城跡には、慶長15年(1610)頃に円福寺が移転しているが、眺望が利くため、実質的には出丸や物見台の機能を果たしたと思われる。

鞆城説明板

 現在の鞆城は、主郭の丘陵上に歴史民俗資料館が建てられているが、その基礎部分に当時の石垣や、石垣の基底部を元に復元した石垣があり、資料館の西側には石垣の石材や、発掘された本丸の石塁などもあった。

 丘陵上は、資料館部分と公園部分、そして地蔵院などがある部分の3段に分かれ、主郭部の構造は把握しやすい。恐らく毛利氏時代は、この3段の郭で完結する城郭だったのではないだろうか。そして、正則が大拡張し、平地部分も城郭として取り込んだ形であったと思われる。しかし、その平地部分は完全に市街地化されており、城の痕跡は見つけられなかった。

 鞆城跡を歩いてみると、本丸跡からは鞆ノ浦が一望できて非常に眺めが良く、小一時間は飽きもせず眺めていられるほど心地が良い。城の痕跡は多くないが、鞆の町並みと併せて、古い時代に想いを馳せながら散策したい城である。

鞆城の郭跡と思われる1段下がった西の平場

 

最終訪問日:2014/6/14

 

 

鞆の浦は観光客が多いので、早朝の人のいない時間に突撃しました。

そのため、城跡に建つ資料館には寄ることができず。

ゆったりと散策できたのは良かったですが、痛し痒しですね。