Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

お城-平山城

東条城

櫓門として復元された東条城本丸大手門 東条吉良氏の居城であった平山城。 東条吉良氏は足利一門であるが、足利氏というのは、長子相続が家中であまり重要視されていなかったのか、嫡子ではない長子という存在が割に多く出てくる家で、吉良氏もそのようにし…

田原城

戸田氏によって築かれた城。 三河戸田氏は、寛政重修諸家譜には藤原北家流正親町三条氏の出とあり、公治の子実興が下向し、その子宗光の時に戸田を称したというが、清和源氏の出自とする説もある。清和源氏説では、源義家の曾孫で美濃森氏の祖となる森頼定の…

末森城 (尾張)

末森城城址碑 末森城は、覚王山日泰寺の東南側の城山に築かれていた。東山丘陵の末端部にある城山には、城山古墳群があり、周辺一帯は、古くから勢力が培われた場所であったようだが、城を築城したのは地生えの勢力ではなく、信長の父織田信秀である。 織田…

上ノ郷城

上ノ郷城本丸南側の次郭の土塁上にある城址碑 鵜殿氏の居城。三河物語では西之郡之城とあり、城主の名から鵜殿城とも呼ぶ。 鵜殿氏は、源平の頃の熊野別当湛増の裔と称し、その祖は中古三十六歌仙のひとりで光源氏のモデルのひとりとの説もある藤原実方に連…

形原城 (稲生城)

形原城址碑 三方を海に面した海城の平山城で、稲生城ともいう。 形原城には、築城に関しての伝説があり、方原師光として知られる源師光が、一帯の荘園の下司となった際、久安5年(1149)に居館を造り、それが形原城の前身になったとされる。師光は、新羅三郎義…

大野城 (宮山城)

大野城址碑と模擬天守 知多半島を水野氏と二分した佐治氏の本拠で、宮山城とも呼ばれる平山城。 知多半島の佐治氏は、高望流桓武平氏とされる近江国甲賀の佐治氏の出といわれ、室町時代にその一流が足利一族である一色氏の家臣となったのが始まりという。 一…

大草城

大草城解説板 知多半島の矢田川流域の大野谷は、古くから半島の中でも重要視された場所で、水運の拠点である大野湊があった。このため、明徳年間(1390-94)頃に知多郡の分郡守護を獲得した一色氏は、湊を押さえることが可能な山を選び、支配拠点として大野城…

犬山城 (尾張)

木曽川と犬山城天守 木曽川の断崖上にある平山城で、国宝五城の内のひとつ。三國志で有名な中国長江沿いの白帝城に喩えられ、そのまま白帝城と呼ばれることもあるようだ。 犬山付近では、文明元年(1469)に、斯波氏の家臣だった織田広近が、犬山城の南1kmほど…

峯城

峯城二ノ丸の腰郭らしき削平地にある標柱 築城は、関盛政の五男政実によると伝えられ、築城年代は、南朝方年号の正平年間(1346-70)、または北朝方年号の貞治6年(1367)という。 政実は、この城を築いて峯を称し、峯氏の始祖となるのだが、そのきっかけは、父…

松坂城

表門の桝形と重層的な石垣 近江国日野から松ヶ島城へと入部した蒲生氏郷が、新たな統治の拠点として築城した平山城。 現在は松阪の字が使われているが、当初は松坂と称しており、松阪と表記されるようになったのは明治の中頃からである。坂の字は主君秀吉の…

名張城 (名張藤堂家館)

戦国時代、名張には土豪の小さな城砦があったといい、当時の城主として服部保章という名も見えるが、真偽は定かではない。ただ、この名張周辺は、世間では伊賀忍者として名が通っている伊賀の地侍集団の一派、服部氏の所領だったらしく、服部氏に繋がる武将…

鳥羽城

鳥羽の地は、戦国時代までは志摩十三地頭の筆頭であった鳥羽氏が治めていた。鳥羽氏は、後鳥羽天皇の末裔を称したとも、本姓は橘氏であったともいわれ、北朝の命で泊浦御厨の警固のために志摩へ下ったのがその最初という。戦国時代の当主である鳥羽主水は、…

田丸城

田丸城天守台の入口は埋門状かつ階段が四分の一円状でかなり特徴的 伊勢神宮やその門前町である山田、関連する湊である大湊を抑える役割を持った城で、南北朝時代に北畠親房・顕信父子によって築かれた。南北朝時代は玉丸城、以降の時代は田丸城と表記された…

亀山城 (伊勢亀山城)

亀山城址碑と多聞櫓 この亀山には、文永元年(1264)に平実忠が築城した亀山古城があり、実忠はその城を本拠として関氏を名乗ったという。その子孫は周辺に庶族を分立して勢力を蓄え、南北朝時代に南朝に属し、戦国時代には同じ南朝方であった伊勢国司家の北畠…

大河内城

城内に建てられた大河内合戦四百年記念碑 北畠氏の一族である大河内氏の居城。 応永22年(1415)に、伊勢北畠氏の初代顕能の孫満雅が阿坂城に籠城した際、満雅がこの城を築いて弟顕雅を入れたのが最初という。満雅の挙兵自体はその前年で、挙兵の原因が、同19…

上野城 (伊勢上野城)

伊勢上野城解説板 分部光嘉が、長野氏の養子となった織田信包の命で築いた城。 この伊勢上野城一帯は、古くは鈴鹿市白子から津市にかけての栗真荘に含まれ、比較的早くから拓かれた土地であった。戦国時代の支配者は前述の分部氏で、分部氏の出自には、工藤…

伊賀上野城

木造で再興された伊賀上野城の大小模擬天守 伊賀の支配拠点だった城で、国名を冠した伊賀上野城として知られている。 天正9年(1581)の天正伊賀の乱で、伊賀忍者としても活躍した伊賀の地侍達は、ことごとく信長に敗れたが、その戦いで主戦場のひとつとなって…

安濃城

安濃城解説板 弘治年間(1555-58)に細野藤光によって築城された平山城で、中伊勢地域最大の城である。 細野氏は、中伊勢を支配していた長野氏の一族であり、宗家である長野氏自体は、有名な曾我兄弟の仇討ちによって殺された藤原南家流の工藤祐経の三男祐長が…

丸岡城

天正3年(1575)、信長は越前の一向一揆を討伐するため、大軍を派遣して組織的な抵抗を瞬く間に崩壊させ、この城の東方4kmにあって一向一揆の本陣が置かれていた豊原寺も制圧し、寺坊を焼き払った。こうして越前を平定した信長は、これを重臣柴田勝家に与え、…

疋壇城

疋壇城址碑と説明板 ヒキタと読み、疋田城とも書かれる。また、別名として塩山城ともいう。 疋田の地は、古代三関のひとつ、愛発関の比定地とする説が有力で、古代から北陸へ向かう際の重要な場所であった。時代が下った応仁の乱の頃、文明年間(1469-87)に疋…

高浜城

高浜城本丸跡の城址碑 永禄8年(1565)に、若狭守護武田家の有力家臣であった逸見昌経が築城したと伝えられる平山城の海城。 逸見氏は、主君である若狭守護武田氏と同じ甲斐源氏の出で、武田氏初代信義の兄逸見光長が祖という。ただ、信義の系からも逸見姓を名…

大野城 (越前大野城)

大野城というのが他にもあるため、区別して越前大野城と呼ばれることが多い。また、亀山に築かれているので亀山城とも呼ばれることがある。 戦国時代の大野には、支配拠点として土橋城があり、大野郡の郡司として朝倉景鏡などが居城していた。信長によって朝…

大黒丸城

大黒丸城説明板 越前での朝倉氏の最初の本拠で、三宅黒丸城ともいう。読み方が色々あるようだが、城跡近くの黒丸城町の読みがクロマルであり、斯波高経ゆかりの黒丸城と区別するために大小を付けたと思われることから、当時の一般的な読みを考え、オオクロマ…

日野城 (中野城)

日野城址碑と空堀 蒲生氏の居城で、一般的には日野城だが、地元では中野城と呼ばれている。 日野城を築城した蒲生氏は、古くから蒲生一帯を治めてきた一族という。そもそも蒲生とは、加茂や賀茂と同じく鴨族の住んだ場所という意味で、蒲生氏自身も、一般的…

彦根城

彦根城天守閣 言わずと知れた国宝五城の内のひとつ。 徳川四天王のひとりである井伊直政は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に近江東部を与えられ、石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城一帯は、東国や北陸と京を結ぶ要衝で、過去にも名だたる…

朽木城 (朽木陣屋)

朽木城から改修された朽木陣屋の説明板 北川と安曇川の合流点近くの丘にある城で、朽木谷城や朽木館、朽木屋敷ともいう。また、後世になって城から陣屋に改修されたため、朽木陣屋とも呼ばれる。朽木を支配した豪族朽木氏の居城であり、別名が示すように里城…

安土城

言わずと知れた信長の本拠で、壮大な平山城である。 天正4年(1576)1月、信長は、琵琶湖に張り出していた独立丘陵で、観音寺城の支城があった安土山へ築城することを丹羽長秀に命じ、3年の歳月をかけて壮大な天守を持つ城を出現させた。 一般に、安土城の天守…

青地城

青地城跡に建つ志津小学校と神明宮 青地氏の出自は、在地豪族であった小槻山公の子孫である小槻氏の流れといわれ、青地に住して地名を名乗ったという。 やがて、鎌倉時代には、近江源氏佐々木氏が近江国の支配を強めて行く中で、要地である青地一帯の志津庄…

多聞山城

多聞山城址碑 松永久秀が大和支配の拠点として築いた城で、戦国時代末から江戸時代にかけて一般化した多聞櫓が最初に設けられた城でもある。 築城開始は、永禄3年(1560)という。当時の大和国は、筒井順昭が日の出の勢いで大和一国を手中に収めかけたものの、…

郡山城 (大和郡山城)

復元されている郡山城追手向櫓 大和国内で最大の規模を持つ近世平山城。他にも郡山城という城が複数あり、市名からも分かりやすいため、一般的には大和郡山城と呼ばれることが多い。 郡山城の史料上の初見は、応保2年(1162)の東南院文書で、地生えの武士団で…