Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

上ノ郷城

上ノ郷城本丸南側の次郭の土塁上にある城址

 鵜殿氏の居城。三河物語では西之郡之城とあり、城主の名から鵜殿城とも呼ぶ。

 鵜殿氏は、源平の頃の熊野別当湛増の裔と称し、その祖は中古三十六歌仙のひとりで光源氏のモデルのひとりとの説もある藤原実方に連なるとされるが、熊野別当家の系譜自体が不確かで、藤原氏との繋がりも、あくまで伝説上の話である。このほかでは、熊野七人衆のひとりで秦姓である常香を祖とする説もあるが、いずれにしろ、熊野の鵜殿出身というのは間違い無さそうだ。ちなみに、かつては日本一小さい村として、三重県に鵜殿村が存在していた。

 熊野と蒲郡の繋がりは、やはり源平合戦の頃からで、蒲形荘や竹谷荘が三河守であった藤原俊成によって開発され、熊野山に寄進された事に始まる。また、頼朝の時代に湛増の子が西ノ郡を拝領したとされるが、これは荘園支配の現状追認だったのだろう。このような繋がりから、遠隔地の現地管理人として、熊野から赴任したのが鵜殿氏の先祖であったのは想像に難くない。ちなみに、蒲郡の地名は、蒲形と西ノ郡両村の合併により合成された名前である。

二段になっている上ノ郷城本丸

 鵜殿氏が、いつ頃から国人として力を持ち、この城を築いたのかは不明だが、南北朝時代にはすでに南朝方として名が見え、15世紀後半の長善の頃には相応に力を持っていたようだ。

 その後、長善の子の時に、長将の上ノ郷家と長存の下ノ郷家、長景の不相家に分かれ、この城に在った上ノ郷家は惣領の立場にあった。ちなみに、下ノ郷家の蒲形城は蒲郡高校近辺に在り、今でも西廓公民館や長存寺といった関連のある名前を確認することができる。

 上ノ郷家は、この長将の頃に今川家に属したようで、子長持は今川義元の妹を室に迎えており、三河支配を目論む義元の与党として厚遇されたようだ。永禄3年(1560)の桶狭間の合戦の際には、長持が存命していたかどうかには議論があるが、長持もしくは子長照が大高城代として織田方に包囲されていることが見え、若き日の家康である松平元康の兵糧運び入れを受けている。だが、今川軍本隊が信長によって急襲され、義元が討たれると、鵜殿勢は松平勢よりも先に三河へと戻った。

東郭も二段に分かれていた

 翌年になり、家康が今川家から独立を図ると、その攻勢や調略を受けた三河の国人が従属していくが、鵜殿氏は今川家の姻戚として踏みとどまり、庶家である下ノ郷家や不相家が家康に従った後も、今川家臣の立場を貫いている。

 このため、翌同5年(1562)に上ノ郷城は徳川軍の攻撃を受け、1度は退けたものの、2度目の本軍の攻撃で落城した。この時、家康は攻略に手こずり、甲賀者を城内に忍び込ませて火を放ち、その隙に攻撃を仕掛けたという。これにより、長持と長照が討たれたほか、長照の子である氏長と氏次は捕らえられ、今川方に人質として在った家康の正室築山殿や嫡男信康との交換要員となった。

 戦後、家康は生母於大の再婚相手である久松俊勝に城を与え、俊勝は於大との子である松平康元を城主としている。俊勝は、義兄である水野信元誅殺を見てその無残さに怒って遁世したが、康元は家康の関東入部まで上ノ郷城主を務め、関東入部後は大名となった。だが、これに伴い、主の居なくなった城は廃城になったという。

上ノ郷城解説板

 城は、東三河と西三河を分かつ山塊から伸びる丘陵部に位置している。山間を抜ける東海道からは外れているが、東の今川家から見た場合、上ノ郷城は西三河の手前にある小平野を扼す城で、前面を海、三方を山に囲まれた小平野は守るに易い。鵜殿氏の厚遇は、この地勢的理由が大きかったのだろう。だが、その重要性の割に城自体は比較的シンプルな構造で、遺構からは、中世的な雰囲気が強く感じられる。

 主郭は、2段構成かつ比較的大きな楕円形の本丸を最高部に置き、小さな腰郭を挟んで東と南に2つの郭を配置し、南側には土塁を廻らせていた。ただ、現地には、地形測量図を基にしたもうひとつの縄張図があり、この図では、本丸南側の郭は堀跡と書かれている。

 その南は、現在は遺構が残っていないが、堀の一部といわれる熊ヶ池や西の沼池跡を結ぶラインが主郭部外縁の線と考えると、方形の郭が浮かび上がってくるだろうか。恐らくは、本丸とその南の次郭、東郭、そしてこの郭の大きく4つの部分が主郭で、これにそれぞれ小郭が付随する城だったのだろう。

本丸虎口付近に残る石垣

 そして、西から北西にかけては、東南側から連想されるよりも大きな高低差のある崖で守り、北から東南に掛けては、人工的に変流させたと見られる落合川が水堀の役目を担い、その落合川の内側も、古地図を見ると傾斜地ながら郭として機能していたようだ。

 城跡周辺は、農村部特有のかなり狭い道で、車で行く場合は注意が必要であるが、駐車場は赤日子神社の所に確保されている。城へ向かうと、まず形が非常に良く残された土塁が目に入り、その上に城址碑があった。土塁を過ぎて空堀に沿って歩き、腰郭と本丸大手の小さな石垣を過ぎると、最高部である本丸へと出る。

 本丸は、下から見て想像していたよりも広く、また、三河湾の眺望が開けており、訪れた時は曇天ながらも心地よい景色だった。この眺めからは、南の街道筋を監視するのが容易だったことがよく解り、麓の下ノ郷城、臨海部の不相城と南北に3つ並んだ鵜殿一族の城は、よく考えられて配置されていたのだと実感することができる。

堀跡の可能性もある本丸南側の次郭

 

最終訪問日:2015/5/23

 

 

家康が有名なだけに、独立初期の宿敵のような感じで描かれる鵜殿さんは、国人衆ながら意外と有名です。

後詰も期待できない中、徹底抗戦した城だと思うと、散策も感慨深かったですね。

そして、蒲郡市街から三河湾にかけての眺めが素晴らしい城でした。