Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

形原城 (稲生城)

原城址碑

 三方を海に面した海城の平山城で、稲生城ともいう。

 形原城には、築城に関しての伝説があり、方原師光として知られる源師光が、一帯の荘園の下司となった際、久安5年(1149)に居館を造り、それが形原城の前身になったとされる。師光は、新羅三郎義光の孫で甲斐源氏武田義清の子でもあるが、有力な血統ながら以降の動きは不詳で、城に関しての史料的な裏付けも無い。

 現在に残る城の形を整備したのは、実質的に松平氏を豪族として興した3代信光の四男、もしくは五男とされる与副で、形原に封じられた際に築いた城であるという。その年代としては、文明12年(1480)や長享年間(1487-89)との説があるが、その頃には既に老齢であった父信光の活動年代を考え、年代の下限をその文明9年(1477)の応仁の乱終結までとする説もある。

 以後、形原松平氏は、貞副、親忠と続くが、松平一族内では、信光の三男親忠の系統である安祥松平家が、信光の孫長親、長親の孫清康と、1代置きに勇将を輩出したために分家から隆盛して惣領になったと見られ、親忠は清康に従った。

原城説明板

 しかし、天文4年(1535)の守山崩れで清康が横死すると、戦後に清康の叔父信定が岡崎領を押領して清康の子広忠を追放するなど、松平一党は団結を欠くようになる。この頃、親忠も水野氏から子家広の室を迎えるなど、勢力保持のために独自の行動をしていたようだ。

 その後、今川氏の後援を受けて広忠は岡崎城に復帰するのだが、形原松平家は竹谷松平家と同様に、松平家臣ではなく三河国人衆として扱われたようで、広忠が子竹千代(家康)を人質として送ったように、家広の室が今川氏に送られている。

 この時の家広の室は、前述の水野氏出身の於丈の方ではなく継室で、於丈の方は水野信元が織田家に通じた際に広忠の室於大の方と同様に離縁されたのだが、この辺りも、形原松平家が今川氏に対して直接的に慮る立場、つまり陪臣ではなく直臣に近い立場であったことを示しているだろうか。ただ、竹千代は今川氏の本拠である駿府に住み、教育や正室の血統などで優遇されている面が多かったが、家広の妻は今川氏の東三河の支配拠点であった吉田城に留め置かれた。この辺りは、家格の差が如実に表れている。

原城一ノ曲輪に建つ古城稲荷社の社殿

 永禄3年(1560)の桶狭間の合戦後、当主の今川義元が討たれた事で今川家は混乱し、機と見た家康が自立すると、家広は竹谷松平家とともに家康に従い、これに激怒した義元の子氏真の命で、吉田城代小原鎮実が家広の妻ら東三河諸氏の人質13人は処刑された。一説に、処刑されたのは家広の子左近であったともいわれ、この人質達が葬られた場所は、現在は十三本塚と呼ばれている。

 この後、形原松平家は、方針を変えずに家康に従い続け、家広の子家忠は永禄8年(1565)の吉田城攻略戦でも活躍し、東三河衆を統率した酒井忠次の指揮に属した。形原城には、家忠の子家信の時の天正18年(1590)まで在城し、家康の関東移封に従って上総五井に移った後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦を経て、その翌年には再び形原に戻っている。

 ただ、その転出から復帰までの間の10年間については、形原城がどうなっていたかというのはよく分からなかった。その後、元和4年(1618)に家信は5千石を加増され、形原藩1万石が成立したが、早くもその翌年に摂津高槻に移封となり、形原城は廃城となっている。

往時は海に突き出していた形原城中核部の小山を西側から

 城は、西浦半島へ続く丘陵の一部が岬状に海に突き出した地形を利用して築城された城で、今は直下の海が埋め立てられているが、そもそもは海を防御力とする城であった。伝承では、築城伝説を持つ方原師光が東古城の部分に居館を築造し、与副入部の際に北古城、南古城にも城が築かれ、拡張されたという。しかし、廃城時期が近世に入ってすぐということもあって、北古城と南古城は完全に住宅地や農地になってしまっており、全体の構造は非常に掴みにくくなっている。

 現在の形原城は、主郭部分だった東古城の高台が古城稲荷社の境内となっており、社殿がある一ノ郭と参道がある二ノ郭は旧状をよく残していた。往時は、この高台の崖下を波が洗っていたといい、三河湾の最奥部を遠望することができる。

 地形としては、東古城の稲荷社が一段高く、次に南古城、更に下がって北古城という感じだろうか。古城稲荷社の境内には、城址碑と説明板、家信を身を呈して護ったというお妙の塚があり、範囲は小さいながらも古城という雰囲気は感じられた。

原城二ノ曲輪

 

最終訪問日:2015/5/23

 

 

古城稲荷社の西にも城域が広がっていたはずなんですが、痕跡はほぼ無かったですね。

本丸跡はポッコリとした小山で、夕暮れ時というのもあってか、なんだかおとぎ話とか昔話の世界のようでした。