Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

お城-平山城

郡山城 (大和郡山城)

復元されている郡山城追手向櫓 大和国内で最大の規模を持つ近世平山城。他にも郡山城という城が複数あり、市名からも分かりやすいため、一般的には大和郡山城と呼ばれることが多い。 郡山城の史料上の初見は、応保2年(1162)の東南院文書で、地生えの武士団で…

和歌山城

和歌山城楠門の前から和歌山城復元天守と連結多聞櫓 日本三大連立式平山城に数えられるほどの、代表的な近世平山城。 戦国時代の紀伊は、室町時代から続く守護の畠山氏は存在したが、畠山氏は畿内の政戦争に軸足を置き、後には家中の内訌もあったため、紀伊…

福知山城

明智光秀が丹波攻略後に再築した平山城。 もともとは、眼下に土師川、由良川の合流点を見下ろす舌状台地の横山に、豪族塩見氏が文亀年間(1501-04)頃に築城した横山城があった。更に遡れば、弥生時代にも砦として利用されていたと発掘調査から推測されており…

園部城

園部城址碑 園部には、戦国時代から城があったといわれ、明智光秀の丹波攻略で天正6年(1578)に荒木氏綱が籠る城を降したとの記述が信長公記にあり、この氏綱の籠った城が園部城だとされる。だが、これが園部城のことを指すのか、篠山の細工所城のことを指す…

亀山城 (丹波亀山城・亀岡城)

伊勢の亀山城と区別して、丹波亀山城や亀岡城ともいう。 明智光秀が、丹波攻略の拠点として天正6年(1578)に築いた城とされているが、それ以前の亀山には、丹波守護代内藤氏の一門、内藤忠行が居城とした亀山城があり、亀山城と呼ばれる城の歴史は、明智時代…

高屋城

高屋城解説板 高屋城は、応永年間(1394-1428)の築城という説もあるが、高屋城の前身という古市城や所在地不明の誉田城との史料上での関連性がはっきりせず、詳しい築城時期は不明という。発掘調査からは、応仁の乱終結直後の文明年間(1469-87)中頃の築城と推…

岸和田城

岸和田城模擬天守 別名千亀利城ともいう。 岸和田城の起こりは、建武元年(1334)に和泉守護となった楠木正成の族党和田高家が当地に代官として赴任し、その治所として築城したことに始まるという。ただし、一次史料からは、岸和田治氏という武将が、その当時…

大坂城

中世の大阪の地は渡辺といい、渡辺党という嵯峨源氏流の武士団がいた。その始祖は渡辺綱で、大江山の鬼退治で有名な摂津源氏源頼光の四天王と呼ばれ、その子孫は水運の権益を保持し、戦国時代まで一帯に勢力を持っていたという。 一方、戦国時代に入った明応…

池田城 (摂津)

池田城跡に建てられた模擬の城門と城址碑 摂津国の有力国人であった、池田氏累代の居城。 池田氏は、景行天皇の裔とされ、相当古くからこの池田の地に根を下ろしていたらしく、文書での初見は、勝尾寺文書に見える弘安7年(1284)の政長という。これは、尾藤時…

津山城

日本三大平山城のひとつ。 嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で将軍足利義教を謀殺し、直後の討伐によって没落した赤松氏に代わり、山名宗全持豊の一族教清が美作の守護に就き、嘉吉年間(1441-44)に教清の叔父忠政が守護代として津山城の場所に鶴山城を築いた。これ…

冠山城

冠山城本丸 織田家と毛利家の戦いで攻防があった、備中高松城を始めとする備前備中国境の境目七城のひとつ。 築城者には、河津左衛門氏明と、守福寺の某とする2説がある。 河津氏明は、室町幕府草創の功臣である足利家執事高師直の配下であり、観応元年(1350…

岡山城 (備前岡山城)

旭川側から岡山城復元天守を見上げる 岡山城の前身は石山城で、現在の二ノ丸の北西部分にあった石山という丘陵を城にしていた。この石山城を築いたのは、建武期に活躍した名和長年の一族という上神高直で、築城年代は正平年間(1346-70)という。 その後、事績…

松原城 (蒲公英城)

松原城跡は丘陵を削られて遺構が消滅 松原城と呼ばれるが、信長公記では道場川原城と書かれた城に比定されており、別名として蒲公英城ともいう。 城は、南北朝時代に赤松円心則村の四男氏範が有馬郡に勢力を張り、松原城の北方6kmほどの東野上城を本拠とした…

三田城

三田城址碑 戦国時代末期から江戸時代の摂津国有馬郡の中心となった平山城の崖城。 三田周辺は、南北朝時代に室町幕府草創の功臣である赤松円心則村の四男氏範が有馬郡へ進出し、三田城から北へ4km弱の東野上城を築いて本拠としたのが有馬郡の首邑としての始…

小田城 (播磨小田城)

小田城址碑 東条川へ突き出した丘陵に築かれた平山城で、別名名村田城ともいう。 築城は、やや北の依藤野を本貫として東条谷を支配した依藤氏とされ、依藤豊秋が築城したと伝わっているが、いつ頃の武将かは定かでない。依藤氏入部の伝承として、文治2年(118…

由良古城

近世に由良城とも呼ばれた成山城と区別して、由良古城や単に旧由良城とも呼ばれる。 淡路は昔、淡路国として一国を成し、室町時代には四国と本州を結ぶ交通の要衝であった。この紀伊半島から淡路、瀬戸内という海域を重要視した室町幕府2代将軍義詮は、熊野…

由良城

由良城があった成ヶ島の成山の全景 成山城とも由良成山城とも呼ばれ、安宅氏ゆかりの中世の由良古城とは区別される。 由良には、南北朝時代以来、熊野水軍であった安宅氏の本拠が海を挟んだ淡路島側にあったが、天正9年(1581)に秀吉によって討伐され、以降は…

箕谷城

箕谷城跡公園の碑 城の歴史については、現地に案内板などが無く、さらに手持ちの資料などを探してみたものの、この城に関することは何も記載されておらず、事跡不詳としか言いようがない。 箕谷周辺の歴史を辿ると、南北朝時代の初期の建武4年(1337)に、新田…

姫路城

言うまでもなく国宝五城のひとつで、世界遺産として有名であり、三大名城、三大連立式平山城にも数えられているが、もとは室町幕府創業の功臣赤松円心則村の次男貞範が築いた姫山城という小城だった。築城年は貞和2年(1346)が有力だが、同5年(1349)説もあり…

花隈城

花熊城や鼻熊城とも書かれることがある平山城の海城。 築城年代は、永禄10年(1567)とも天正年間(1573-93.1)の初期ともいわれ、信長の命を受けた荒木村重によって築城されたという説が一般的だ。しかし、永禄10年説であれば、上洛した信長が摂津池田の池田勝…

龍野城

龍野城大手埋門 龍野城の前身である龍野古城は、明応8年(1499)に後背の鶏籠山に築城され、赤松家庶流の村秀が城主であった。村秀とその子政秀は、内部対立が続いて衰退する主家を支え、政秀の頃には相応の勢力を築いたが、小寺氏に敗れると勢力を失い、最終…

志方城

室町時代からの赤松氏の家臣櫛橋氏の居城。市易城ともいう。 志方を代々領した櫛橋氏は、各系図類では、播磨の名族赤松氏を興隆させた円心則村の4代前の則景の子有景を祖としている。しかし、この八郎有景は櫛田氏の祖となった人物で、櫛田と櫛橋を取り違え…

沢田城

八上城の西北、篠山城の近くの標高60m程の滝山という小山に築かれた八上城の支城。 現地案内板によると、築城は天文年間(1532-55)の前半で、現地には波多野秀治の命により小林長任が築いたとあるが、築城年代が正しいとすれば秀治が幼年の頃であり、秀治の父…

篠山城

篠山城鳥瞰図 京に隣接する丹波国は、西国と京を結ぶ重要な位置にあり、時の勢力から常に重要視されていた。その証拠に、鎌倉時代には北条氏が守護を継承したと考えられ、南北朝時代から室町時代にかけては、山名氏や細川氏といった幕府の有力大名が守護とな…

越水城

越水城址碑と説明板 三好長慶の畿内最初の拠点として有名な城。小清水城や腰水城とも書く。 小清水の別名通り、今でも3ヶ所の湧水が残るこの丘陵は、西宮の町も近く、今の国道171号線にあたる西国街道を眼下に見下ろすことが可能という地勢的に重要な場所で…

郡家城

近くにある伊弉諾神宮の祭主家、田村氏の居城。田村氏館ともいう。 中世の仏教と神道は神仏習合し、神社内に神宮寺が建てられ、その神宮寺に僧兵を抱えることによって寺社は軍事勢力となった。有名なものは、中央では延暦寺や円城寺、興福寺などであり、地方…

岩屋城 (絵島ヶ丘岩屋城)

淡路島北部の岩屋には、岩屋城と呼ばれる城が2つある。その内のひとつがこの城で、便宜上、絵島の向かいの絵島ヶ丘にあることから、絵島ヶ丘岩屋城とした。ちなみにこの丘陵の名は三対山とも呼ばれる。 この城の城地には、元は絵島明神や岩屋明神と呼ばれた…

魚住城

魚住城の説明板 室町時代から戦国時代にかけて、東播磨に勢力を持っていた豪族魚住氏の居城。 魚住城と呼ばれるものとしては、ここから少し西にある中尾という地に、魚住長範が居館を構えたのが最初という。 魚住氏は、御着を本拠としていた赤松庶流小寺氏の…

伊丹城 (有岡城)

伊丹氏代々の居城で、有岡城ともいう。現地では、有岡城の表記で統一されていた。 伊丹氏は、藤原北家魚名流の利仁流加藤氏が祖とされる。登場時期としては、平安時代末期に伊多美という武士の存在が確認できるが、この武将は伊丹氏との繋がりが分からない。…

出石城

城の象徴となっている三ノ丸の辰鼓楼 出石周辺は、円山川沿いの但馬国府からほど近く、古代には袴狭地区に国衙が置かれていたともいわれる。また、室町時代には、但馬国の守護を務めた山名氏の本拠が、出石市街からやや北の此隅山城にあった。 室町時代中期…