Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

沢田城

 八上城の西北、篠山城の近くの標高60m程の滝山という小山に築かれた八上城の支城。

 現地案内板によると、築城は天文年間(1532-55)の前半で、現地には波多野秀治の命により小林長任が築いたとあるが、築城年代が正しいとすれば秀治が幼年の頃であり、秀治の父晴通か祖父稙通の命であったと思われる。ちょうど波多野氏が守護代内藤氏と激しく争っていた頃で、築城は篠山盆地の支配を強化する為であったのだろう。

 この小林氏の出自は詳しく分からないが、山名氏が大きく勢力を後退させた明徳2年(1391)の明徳の乱まで、丹波守護職は山名氏が保持しており、その家臣であった小林氏が守護代を務めていた。史料に見える守護代の国範や重長といった名と、沢田城主小林氏の歴代の当主の名が引き継いだように重なることから、この守護代小林氏の裔が土着したものという可能性が高いと考えられる。

澤田城址

 山の麓にある小林寺は、長任を開基として子の長治が建立した雑林庵が前身となっている為、築城者である長任は、天正年間(1573-93.1)には隠退か没していたようだ。その後の当主としては、長治から時道と続き、次の重範の時に織田家部将明智光秀による丹波攻略戦が始まるのだが、重範は柏原の八幡山で奮戦して討死し、この後の沢田城の様子は知れない。残された家臣は、一族の者を立てて籠城し、八上城包囲網形成の過程で落城したか、もしくは城を放棄して本城である八上城に籠ったのではないだろうか。

 波多野氏滅亡後、並河飛騨守が八上城の城代となっていたが、その頃に渡部綱定という者が沢田城で叛乱を起こして鎮圧されており、これが沢田城の史料に見える最後という。

 城は、滝山の中央部に楕円形の本丸を配し、三方に伸びる尾根それぞれに郭を設けたシンプルな構成で、東南方向の出羽丸には大手と馬場があり、北東方向には二ノ丸を置いて搦手としていた。現在は墓地となっている西南方向の尾根にあった郭も出羽丸といい、平坦で広い墓地はそのまま郭の跡を利用していると考えられるので、その大きさから城全体の規模が想像できる。また、城のある滝山周辺には池が多いが、これらの沼沢や水田が防御力の一端であったことは確実と思われ、搦手側にある八幡神社も、武家が好む神であることから、小林氏が勧進したものなのかもしれない。

縄張図

 城跡へは、麓の小林寺境内から墓地を抜けて山へと入る道があり、三蔵法師の舎利を納めているという聖骨塔を過ぎて更に登っていくと、明らかに空堀と見られる溝がある。城跡は全体的にかなり竹林に覆われてはいるが、土塁や郭の輪郭も比較的はっきりと残っており、城址碑と手書きの案内板もある為、おおよそ当時の様子がどのようであったかを辿ることが可能だ。もう少し竹を払って整備すれば、良い状態で残っている遺構がはっきりすると思われるだけに、少しもったいない城跡ではあった。

 小林氏の菩提寺であった小林寺は、沢田城のある後背の滝山から伸びた尾根筋に抱かれるように立地しているが、戦国前期から中期にかけて見られた領主居館に多い地形である。もしかすると、往時には居館があり、合戦の時に使った山上の郭ではなく、穏やかに過ごしていたであろう所縁の深い居館の跡地に寺が移されたのかもしれない。また、山へ行く道の途中にある、出羽丸の跡である平坦な墓地を歩くと、小林姓の墓が多いことに気付く。やはり、生き残った庶流が小林寺の檀家として滅んだ宗家を祀りつつ、現在まで続いているのだろう。そう考えると、寺は血族の歴史の集大成と言っても過言ではないのかもしれない。

 

最終訪問日:2004/11/14

 

 

日没後の散策となり、写真はほぼ壊滅しましたけど、遺構自体は割と形を留めていて、散策し甲斐がありました。

ただ、竹がひたすら邪魔をしてくるので、竹さえ繁茂していなければ良い城跡なのに、と惜しい気持ちでいっぱいの城でしたね。

城址碑もマイナーな城なのにすごく立派で、雰囲気もあり、ほんと惜しい城です。