Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

八上城

 明智光秀と争った丹波波多野氏の居城で、ヤカミと濁らずに読む。丹波三大山城のひとつ。

 波多野氏の出自ははっきりとせず、藤原秀郷流相模波多野氏の後裔とも、石見の豪族吉見氏の一族清秀が母方の波多野姓を名乗ったともいわれ、有名な最後の当主秀治の曾祖父以前は名前も複数伝わって判然としないのが実情である。一説には、山名氏の家臣で因幡八上郡に居した田公氏の系統とされ、城の名は郡名から来ているともいう。

 史料からは、応仁元年(1467)からの応仁の乱において、波多野清秀なる人物が細川氏に属して功を挙げ、丹波国多紀郡に所領を得たというのが比較的はっきりしている事績で、清秀の子と思われる人物が永正年間(1504-21)に八上城を最初に築いたようだ。この武将には元清、稙通、秀長、経基という複数の名が伝わっている。

 ただ、この時の築城は、現在の高城山ではなく西峰の奥谷城と呼ばれる場所で、高城山の山頂にも見張り台や出丸のような後背を固める軍事施設は造られていたと考えられているが、この辺りは毛利元就が本拠とした吉田郡山城と事情が似通っている。つまり、築城当時は全山城砦化して守るだけの動員兵力がまだ無い上に合戦もそれほど頻繁ではなかったが、やがて勢力の拡大とともに戦乱が常態化し、旧城を一部として取り込んで、より高所へ大規模に再築したというところだろうか。共に郡主程度の勢力から出発しており、この共通点を考えると面白い。

 波多野氏の事跡がより明確になってくるのは前述の元清(稙通)からで、元清以降は秀忠、元秀(晴通)、秀治と続くが、稙や晴の字は将軍からの偏諱と見られ、京に近い丹波という地勢や管領細川家の家臣ということもあってか、室町幕府と近い存在であったようだ。

 元清の頃、管領細川政元の養子らに家督相続の内訌が起こり、これは永正の錯乱や両細川の乱と呼ばれるが、波多野氏も乱の一方の主役である細川高国の有力な家臣として争乱に加わり、には弟香西元盛が讒言から謀殺されたことでもう一方の主役である細川晴元側に転じて丹波で勢力を拡大した。この時、八上城は高国の軍勢に攻撃されているが、撃退している。

 元清の子秀忠の頃には、対立する丹波守護代内藤氏を圧迫して丹波の有力な勢力に成長し、戦国大名としての地歩を固めて行ったのだが、秀忠の子元秀の時には、細川家中で台頭した三好長慶と細川家当主となった晴元が対立し、晴通は晴元に味方した為、これによって天文年間(1532-55)の末以降、三好軍の攻撃を受けるようになった。そして、三好軍の攻撃を数度は撃退したものの、ついに弘治3年(1557)か永禄2年(1559)末頃に、長慶の家宰松永久秀らの攻撃で落城してしまう。ただ、八上城は失陥したものの、波多野氏自体は丹波に勢力を残していたようだ。

 三好氏の支配となった八上城には、久秀の甥孫六が城主となり、丹波八木城で内藤家の名跡を継いでいた久秀の弟長頼と共に、丹波支配の拠点となった。しかし、八上城復帰を目指す晴通と、晴通の嫡子とも養子ともいわれている秀治は、周辺豪族の援助を受け、永禄9年(1566)についに城を奪回するのである。以降、八上城を本格的な山城として拡張していく。

 一方、中央では、三好氏に代わって信長が永禄11年(1568)に足利義昭を擁して上洛しており、秀治を始めとする丹波国人衆も一旦は足利・織田政権の影響下に入った。しかし、義昭と信長が不仲になると、秀治は信長と距離を置き始め、荻野家を継いでいた赤井直正が、同じ織田陣営の山名氏との争いから離反したことで天正3年(1575)に明智光秀による討伐が開始されると、突如として明智軍を背後から襲い、敗走へと追い込んでいる。だが、これが光秀による丹波経略の端緒となり、以降、光秀は幾度と無く兵を丹波へ繰り出し、秀治も妹婿の播州三木城主別所長治や毛利氏、摂津伊丹城荒木村重と共に反織田戦線の一端を担ったが、ついに天正7年(1579)に落城し、波多野氏は滅んだ。

 この時の話として、光秀は母とも乳母ともいわれる人質を出して和睦を結び、秀治と弟秀尚を上洛させたが、信長が許さなかった為に兄弟は処刑され、八上城でも人質を殺して徹底抗戦したという伝承が残っている。これが本能寺の変の遠因になったともいわれているが、後世に創作された気配が強く、信憑性は低い。一説には、籠城の際に多数入れた野武士が、利の無い戦いということで叛乱を起こし、城主兄弟を差し出したという話が転じたともされ、正規武士ではなく忠義心の薄い野武士なら返り忠を働こうとするのも頷け、一定の説得力がある。

 城にはその後、明智光忠か並河易家が城代になったようだが、天正10年(1582)の本能寺の変直後の山崎の合戦で光秀は秀吉に敗れ、戦後に丹波国を与えられた羽柴秀勝の属城となった。秀勝病没後は、前田玄以丹波亀山城主に任じられたが、この前後の八上城主はよくわからない。関ヶ原の合戦後には、玄以の子である茂勝が5万石で八上に入封するが、慶長13年(1608)に発狂して改易となり、代わって松井松平家の康重が入った。

 城は、慶長14年(1609)に築城された篠山城に役割を譲って廃城となり、資材や石垣なども同時に持ち出されたが、山上には郭などの遺構が確認できる。山には登山道が整備され、伝承に沿うように光秀の母が処刑された松や井戸などが案内表示されていたが、山自体が峻険な上に季節的なものなのか、訪れた時は草木が生い茂って歩きにくく、遺構の散策も細かい所まではできなかった。ただ、2005年に国指定の史跡となり、城内の整備が進んでいるようだ。

 

最終訪問日:2000/5/12

 

 

訪れた当時は付近に案内板も無く、無名の古城に近い扱いでしたが、国指定史跡になったので、整備が進んだようです。

麓からの登山になるので、かなり気合は必要になりますが、当時は写真も撮らなかったですし、ぜひリベンジしたいですね。