Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

名張城 (名張藤堂家館)

 戦国時代、名張には土豪の小さな城砦があったといい、当時の城主として服部保章という名も見えるが、真偽は定かではない。ただ、この名張周辺は、世間では伊賀忍者として名が通っている伊賀の地侍集団の一派、服部氏の所領だったらしく、服部氏に繋がる武将が城砦に居していたのは間違いなさそうだ。

 名張城が本格的に築かれたのは、桃山時代に入ってからで、天正13年(1585)に伊賀へ入部した筒井定次が、家臣松倉勝重(重信)を名張に封じ、勝重が子重政の縄張で城を築いた。しかし、家老職を引き継いでいた重政は、定次を諌めるためか翌々年に筒井家から出奔してしまい、代わって桃ヶ谷国仲が入城している。

 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際には、筒井氏の本拠である上野城が西軍の新庄直頼によって落城しており、この名張城にも何らかの影響があった可能性もあるが、詳細はよく判らない。ともかく、戦後も定次は領地を安堵されて支配を続けたのだが、8年後の慶長13年(1608)には改易となってしまっている。

一部が残存する名張藤堂家館

 この改易の理由としては、新旧家臣の対立説や政務倦怠説、京に近い伊賀を定次に任せることに家康が不安を抱いたという説、定次がキリシタンであったという説など、いろいろと挙げられているが、実際の理由はよく判っておらず、上記の理由が複合された結果なのかもしれない。

 筒井氏の没落後、伊賀は藤堂氏に与えられ、高虎が伊予から移ってきた。高虎は、伊賀上野城と伊勢の津城をそれぞれの国の中心と考えており、名張には、藤堂一族と繋がりのある梅原武政を城代に据えたが、統治する上で不手際があったため、後に上野城代を務めていた高虎の異母弟高清に上野城と合わせて支配させている。その後、寛永13年(1636)に高虎の養子である高吉が名張へと入り、維新まで高吉の系が1万5千石の名張藤堂家として続いた。

名張藤堂家館説明板

 ちなみに、高吉は丹羽長秀の三男で、最初は秀吉の弟秀長の養子となり、次いで高虎の養子になったという複雑な経歴を持っている。高虎は、最初は後継者にと考えていたが、実子高次が生まれてからは冷遇したといい、このような背景もあって本家と名張藤堂家は仲が悪かったという。後に名張藤堂家内で独立の画策などもあったが、結局は名張藤堂家領は名張藩として対外的に独立したものとはならず、あくまで藤堂家の藩内の分知のままであり、従って、名張城も名張陣屋と呼ばれた。

 現在の城跡には、名張藤堂家の屋敷が一部残っている以外、これといった遺構は無い。地形を見れば、南北西の3方向を名張川が廻り、屋敷のある一帯が周囲より高くなっており、かつてはこの高低と河川の防御線を利用した平山城であったのは一目瞭然であるが、宝永7年(1710)に大火に見舞われた際に屋敷の大部分が焼けたというから、かつての城郭建築物としてなんとか残っていた建物類も焼け落ち、城としての面影が一掃されてしまったのだろう。現在残っている建物は、この大火の後に再興された屋敷の一部で、当時の上級武士の住まいがどのようであったかがよく解るが、やはり城跡としては寂しい。

 

最終訪問日:2007/10/24

 

 

江戸時代に陣屋扱いでしたし、焼失もあったし、市街化も進んでるしで、一帯に城跡らしさはほとんど無いですね。

閑静な文教地区にあり、地形の雰囲気としては、水口城の付近によく似てるなと感じました。