Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高知城

 高知城は、山内一豊が本格的に築いた城だが、その前身として、南北朝時代の延元年間(1336-40)に、南朝方として活動した大高坂松王丸が高知城のある大高坂山に城を築き、後醍醐天皇の第7皇子満良親王に比定される花園宮を迎え、北朝方と戦ったという。

 だが、松王丸に利なく、興国元年(1340)かその翌年に落城して討死を遂げた。また、この時の城は規模が小さく、砦に近いものであったとようだ。

 その後、戦国時代の史料に散見されるように、城としての機能は残っていたと見られるが、重要な城ではなかったようで、次に大高坂の名が大きく登場するのは、桃山時代である。

 土佐の出来人と呼ばれた長宗我部元親は、天正13年(1585)に四国統一をほぼ成し遂げたが、統一後すぐに中央を制した秀吉に敗れて土佐一国に戻された。これに伴い、乱世の防御力重視の城から平時の城へ拠点を移すべく、同16年(1588)にこの大高坂の古城跡に城を築き、城下町も整備している。だが、水害の影響が大きく、元親は在城3年で浦戸へ移らざるを得なかった。

高知城の追手門と背後の天守

高知城杉ノ段から三ノ丸石垣

 結局、再び大高坂山に城が築かれるのは、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、長宗我部氏に代わって土佐を領した、山内一豊によってである。

 土佐へ入部した山内氏は、もともとは信長に滅ぼされた尾張守護代岩倉織田家の家老を務めていた一族で、一豊の父盛豊は岩倉織田氏と運命を共にし、一豊自身は流浪中にいくつかの豪族に仕え、やがて信長に仕官した。そして、秀吉付きの与力から秀吉の直臣へと立場を変えたことから重用され、豊臣政権確立の過程で高浜や長浜、そして掛川城主を歴任している。

 関ヶ原の合戦では、戦い当日にさしたる功はなかったものの、小山会議を始めとする戦前の動きが評価されて土佐一国を得た。これは、豊臣恩顧の大名には手厚く恩賞を与えるという、家康の懐柔の方針も影響したようだ。

 ただ、長宗我部時代の検地高は9万8千石で、掛川時代の石高の約2倍であり、後の石高からイメージするような、何倍もの加増があったというわけではない。20万2千6百石へ改められたのは、山内氏自身が届け出た慶長10年(1605)であり、これは、多分に国持ち大名としての面子を重んじた気配が窺えるだろうか。

高知城二ノ丸石垣の巨大な樋と後背の天守

高知城二ノ丸乾櫓跡

 経緯はともかく、長宗我部旧臣の叛乱を抑えて関ヶ原の合戦の翌年に入部した一豊は、最初は浦戸城へと入城したが、すぐに新しい本拠地の選定に取り掛かり、同年中には高知城の築城を開始した。そして、本丸と二ノ丸の工事がほぼ終了した同8年(1603)に、高知城へ移っている。

 城の完成は、地盤の悪さと城域の拡張で三ノ丸の工事が長引き、一豊の死後である同16年(1611)にようやく竣工した。その後、享保12年(1727)に火災があり、大部分の建物が焼失したが、翌年から宝暦3年(1753)までかかって再建され、幕府に対する粘り強い交渉が実り、天守再興も許されている。

 ちなみに、高知の地名は、当初は川に挟まれた地形から、一豊が河中山城と名付け、後に読みは同じながら文殊菩薩の高い知恵を授かるという意で高智となり、やがて高知になったという。

高知城の二ノ丸と本丸を結ぶ詰門内部

高知城本丸搦手の黒鉄門

 城は、四層五階の天守と多聞櫓で囲まれた本丸の北に二ノ丸、北東に三ノ丸を配し、その下には、大手がある南東方向に杉ノ段、太鼓丸、搦手のある西に獅子ノ段、御台所屋敷という郭を設け、搦手付近には西ノ丸がある。その他に、現在県庁となっている場所には、藩主の一族が居住する御屋敷があり、官庁施設や警察、学校などの敷地となっている北東部分は、北ノ郭と呼ばれていた。

 維新後は、明治6年(1873)に表御殿や奥御殿の建物が撤去され、同9年(1876)に本丸と追手門以外の建物が払い下げられたが、本丸の天守以下5棟の建物と、追手門や本丸と二ノ丸を結ぶ詰門など4つの門、6つの矢狭間塀が残っており、重要文化財に指定されている。

 実際に城内を歩いてみると、本丸、二ノ丸、三ノ丸に加え、杉ノ段と獅子ノ段の石垣が非常に堅牢で、この5つが主要な郭であったのだろう。追手門から城の中心部へ向かうと、桝形を通る度に城の雰囲気に重厚さが増し、これらの郭の建物が次々に現れるというのは、典型的な近世城らしくかなり良い感じだ。

高知城天守から詰門と二ノ丸の眺め

高知城梅ノ段から二ノ丸石垣と天守

 詰ノ門から先は、各地にある近世城郭の中でも特に特徴があり、櫓門の2階部分が渡廊下となっている詰門や、戦国時代末期の様式を持つ天守など、優美さよりも武骨さが強く感じられた。

 城内を散策すると、まず出迎えるのが一豊の像である。一豊と切っても切れない逸話として、正室による黄金10枚の名馬の話があるが、その名馬と良妻賢母の鑑である一豊夫人と名馬の像も、杉ノ段の近くにあった。ちなみに夫人の名は、司馬遼太郎の小説では千代となっているが、史料には出家後の見性院の名しかなく、確たる実名は伝わっていない。

 また、城内には板垣退助の像もある。幕末の土佐藩には、藩主の山内容堂こと豊信が四賢侯のひとりとして、また、上士としては、この板垣退助後藤象二郎などが名を馳せた。だが、倒幕と新政府樹立に関わった薩長土肥の一角にしては、板垣退助の像を除いて、城に幕末維新の匂いがあまり無い。やはり土佐の志士といえば、坂本竜馬中岡慎太郎武市半平太など、城とはあまり関わりのなかった郷士や庄屋といった、正規の藩士ではない階級が中心だったからなのだろう。それもまた、高知城土佐藩の歴史である。

 

最終訪問日:2019/11/11

 

 

築城者の一豊と言えば、「功名ヶ辻」が有名ですね。

小説を読んだ中学生の頃から、一豊ゆかりの高知城には行きたかったですが、1度目に訪れた時は、時間切れで天守に入れませんでした。

それだけに、2度目の訪問で天守に登った際には、妙な達成感がありましたね。