土佐の国人佐竹氏の居城で、築廃城時期不明の山城。
土佐佐竹氏は、近世大名としても有名な常陸佐竹氏の庶流である。入部年代としては、戦国時代という説もあるが、それ以前から活動が見えることから、承久3年(1221)の承久の乱後とする説が正しいようだ。恐らく、後鳥羽上皇側の武士の領地が再編されたことによって新たに入部した、新補地頭だったのだろう。
その後の佐竹氏は、南北朝時代に北朝方として細川氏の指揮下で活動しており、室町時代には、そのまま土佐守護職を務めた細川氏に従っていたものと考えられる。
戦国時代の始まりとされる応仁の乱が、応仁元年(1467)に中央で始まると、摂政や関白を輩出する家柄である、五摂家のひとつ一条家が、土佐に幡多荘という荘園を持っていたことから、翌年には関白をも務めた一条教房が土佐に避難し、国人らに迎えられた。
戦国時代中頃には、守護である細川氏の宗家で家督争いが続いたことから、次第に土佐国内で求心力を失い、代わって十分な権威を持つこの一条氏が、国人達の利害調停者として期待され、やがて大名化して行く。こうして、佐竹氏も一条氏に属したという。
その後、当主であった義直が、長宗我部元親の台頭によって元亀2年(1571)にこれに従属し、義直の甥親直が元親の娘を室に迎えるなど、佐竹氏は、元親から厚く信頼されていたようだ。ただ義直は、天正14年(1586)の戸次川の合戦で討死してしまっている。
佐竹氏が本拠とした久礼城の築城時期は不明だが、約1.5km北の西山城の発掘調査から、佐竹氏の本拠が、16世紀中後期に西山城から久礼城へと移された可能性が考えられるという。つまり、この義直が当主の時代に、久礼城が築城されたか改修された可能性が高い。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、元親の四男盛親が西軍に属したことにより、長宗我部氏は改易となった。戦後に入部した山内一豊は、土佐国内の各国人の城を整理して集約しており、久礼城もこの時に廃城になったと思われる。
ちなみに、佐竹氏の子孫は、義直の次男親辰が堺に移り、御家再興を果たせぬまま同所で死去したという。また親直は、盛親に従って慶長20年(1615)の大坂の陣で討死し、その室や子は伊達軍に捕らえられ、そのまま仙台藩に仕えた。そして、後に伊達家臣柴田家に養子として迎えられた次男の朝意が、伊達騒動に登場する奉行柴田外記である。
訪れた時は、お城などの情報をまとめた地図に久礼城とあり、その大まかな位置を頼りに探したものの、駅などでも分からず、徒歩であちこち探している時に、中学校入口に学校創立の碑があるのを発見し、その碑に久礼城のことが触れられていたため、学校の裏山が久礼城であるということが判った。現在は、登山道が整備されているという。
最終訪問日:2004/9/10
校門の碑を読んでいる時に、学校に用事があったと思われる、車で通りがかった女性の方に声を掛けられ、わざわざ役所に勤めているという知り合いの方に聞いて下さり、城跡に小さな祠だけがあるという事まで教えて頂きました。
とても有り難かったです。
ただ、中学校の敷地から登る事ができるということでしたが、さすがに平日の授業中でもありましたし、登山道もしっかりしてないということだったので、登城はちょっと遠慮しました。
学校の敷地が、城跡や麓の居館跡を利用したというのはよくあるパターンですが、不審者に見られないよう、なかなか気を使います笑