Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

窪川城

 土佐の国人窪川氏の居城。茂串山城とも。

 窪川氏は、仁井田荘を領していた五人衆と呼ばれる国人のひとつである。出自としては、相模の山内氏の流れで相模の国から明応9年(1500)に入部したとも、土佐七雄のひとつである津野氏の流れともいう。

 窪川城を築城したのは、経緯は不明ながら相模から入部したとも伝わる山内宣澄で、窪川城を築城し、地名を名字とした。

 宣澄は、当初は津野氏、そして津野氏が天文15年(1546)に一条氏に降伏した後は、一条氏に従っていたという。そして、長宗我部氏の勢力が伸びてくると、子俊光は長宗我部元親の侵攻によって戦わずに降ったとあり、元親の勢力伸張に伴って最終的には長宗我部氏に属した。

 だが俊光は、長宗我部氏の伊予侵攻に参陣し、天正7年(1579)5月21日の岡本城の攻防で、長宗我部軍が敗れた際に討死してしまっている。俊光の後には、俊光の弟とも甥ともいう七郎兵衛や七郎左衛門の名が見えるが、城主であったかどうかまでは、よく分らなかった。

 窪川城の城主としては、宣澄や俊光のほかに、うすぐも姫という城主の娘の伝承の中では、山内常清という名が出てくる。このような伝承があることも、窪川氏が領主であったことのひとつの証左なのだろう。

 この城がいつ頃に廃されたかは詳らかでないが、長宗我部氏が慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に改易となり、代わって入部した山内一豊が、重臣山内一吉に対し、新たに窪川への築城を命じていることから、廃城は山内氏入部の際か、その少し前かと思われる。一吉は、古渓山に城を築いて麓に土居を構築し、5千石の領主として城下を営んだ。

 

最終訪問日:2004/9/10

 

 

窪川の市街地から近い場所に2つお城があるはずなんですが、窪川氏の旧の窪川城だけでなく、一吉の築いた新城についても、市街に案内が無く、詳しい所在はわかりませんでした。

またいつか、2城まとめて訪れてみたいですね。