Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

吉良城

 土佐七雄に数えられた、有力国人吉良氏が居城とした山城。弘岡の地を治める城であるため、弘岡城とも呼ぶ。

 吉良氏は、三河が本貫の足利系吉良氏の庶流という説もあるが、同じ清和源氏源希義の流れという説が一般的である。希義は、源義朝の五男で、頼朝の同母弟でもあり、平治元年(1159)の平治の乱での義朝の敗北後、頼朝が伊豆に流されたのに対し、希義は土佐へと流された。

 希義は、治承4年(1180)に頼朝が挙兵した際、警戒した平家から追討され、逃れる途中に討たれたとも、自害したとも伝わる。また一説には、海上勢力と連携を図って挙兵するつもりだったともいう。ただ、没年には諸説があり、治承4年から寿永元年(1182)まで、史料によって差がある。

 土佐吉良氏は、希義の没後、希義が通っていた平田経遠の娘が子を産み、後に頼朝に拝謁して吾川郡で数千貫の地を与えられたほか、三河国吉良荘でも馬の飼場として3百貫余を与えられ、吉良希望を称したことに始まるという。ただ、希義の長男隆盛の系統ともいう説があるほか、「土佐国編年紀事記」では、平氏の出自としている。

 出自は横に置くとして、この希望が本拠として吉良峯城を築いたとされ、その城が吉良城のことという。年代としては、12世紀末から13世紀初頭ということになるだろうか。

吉良城詰ノ段下の石垣

吉良城詰ノ段には土塁も確認できる

 以降の吉良氏については、事績が曖昧となり、北条氏の被官的な存在であったようだが、鎌倉時代末期までの動向は、はっきりとしない。

 鎌倉時代末期になると、希世・希秀の兄弟や希秀の子希重が後醍醐天皇に味方して台頭し、希重の跡は希雄が継いだ。希雄は、南北朝時代北朝方へと転じ、希雄の嫡子希定から次子宣実へと家が引き継がれて行くのだが、宣実以降は通字が希から宣へと通字が変わっており、吉良家中で何事かがあったのだろう。

 これについて「春野町史」では、足利氏系である三河の吉良氏が、同じく足利庶流の細川氏に従って入部し、それまでの吉良氏に取って代わった可能性を指摘している。

 以後、土佐守護を務めた細川氏に従って活動し、応仁元年(1467)からの応仁の乱では、宣通が上洛して戦線に参加していることが見えるという。

 その後、応仁の乱での一方の雄であった細川勝元の子で、半将軍とまで呼ばれた実力者の政元が、養子同士の家督争いに巻き込まれて永正4年(1507)に横死すると、家督争いから両細川の乱へと発展し、土佐には細川氏の支配力が及ばなくなる。

 こうして、土佐七雄による群雄割拠の時代となり、そのひとつに数えられた吉良氏も、本山氏や大平氏と結託して長宗我部兼序を滅ぼすなど、戦国の群雄として行動し、宣経の時代には、土佐に疎開していた中村の一条氏を奉じて全盛期を築いた。

竹橋が架けられた吉良城の大堀切

吉良城の南の郭群から大堀切方向

 しかし、宣経が没して宣直が継ぐと、愚鈍な宣直の下から諫言できる人物がいなくなってしまい、天文9年(1540)に本山軍の急襲を受けて吉良城は落城し、宣直も鮎漁に興じていた先の仁淀川で討たれている。

 こうして吉良氏は滅亡してしまったのだが、吉良氏の名跡は本山茂辰が継ぎ、吉良城に入城して吉良氏を名乗ったという。「吉良物語」には、永禄6年(1563)に長宗我部元親が吉良城を攻略して吉良氏を滅ぼしたとあるが、同年正月に茂辰が平野部の拠点であった朝倉城を放棄して本山に退いていることから、これは本山系吉良氏のことだろう。

 本山氏を追って仁淀川東岸まで領地を拡げた元親は、この地の名族であった吉良氏を惜しんで弟親貞と宣直の娘を娶せて名跡を継がせた。親貞は、元親の右腕としてよく支え、永禄12年(1569)に一条氏の支配していた蓮池城を攻略して移り、天正2年には中村城へと移っているが、吉良城は以降も吉良氏の城として認められ、親貞の病没後は、嫡子親実が蓮池城と共に城主の地位を受け継いでいる。

 だが親実は、元親が天正14年(1586)の嫡子信親の討死後に四男盛親へ家督を継がせようとした事に反対して死を賜り、天正16年(1588)に自害に追い込まれてしまった。こうして長宗我部系吉良氏は2代で断絶し、吉良城は盛親に与えられたのだが、間もなく廃城になったという。

吉良城説明板

吉良城南郭群の中核部は細長い

 吉良城は、吉良ヶ峰と呼ばれる山から南東方向へ延びた尾根筋のピークにあり、尾根筋の北西方向は緩やかであるが、東と南は急な斜面となっていた。その細長い頂上部を削平して城郭としており、標高111.2mの北郭群と標高111.5mの南郭群に分けられる。

 北郭群は、最高部が詰ノ段と呼ばれており、こちらが本丸だったと考えられ、かなりの大きさがあり、建物跡や柵列が検出されているという。詰ノ段周辺には、幾つかの小郭があり、北西側は峰筋を断ち切るように堀切が穿たれ、詰ノ段南端には石垣も見られた。

 北郭群と深い堀切で断ち切られた南側には、南郭群があり、こちらは北郭群よりも郭が繋がった構成で、西側には畝状竪堀もあるという。ただ、南郭群の最高部には木々が茂っており、ある程度の広さがあることは確認できたが、隅々まで散策はできなかった。

 吉良城へは、国道56号線から県道36号線に入り、田園の中にある保育園方向へ向かうと、城への案内が出ており、山の西側から入る事ができる。標高はそれほどでもないが、あまり整備されているとも言えない道だった。城域に入ってしまえば高低はあまりなく、大堀切や石垣、用途不明の大穴など、インパクトのある構造が多く、散策を愉しめる。

 

最終訪問日:2019/11/12

 

 

意外と郭が広かった城で、さすがは土佐七雄の一角を占めた豪族の城といったところでしょうか。

竹橋は妙に風情があって良かったです。

作ってくれた方に感謝!