Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

茂木城

 鎌倉幕府で有力な御家人であった八田知家が、奥州藤原氏討伐の功で下野国茂木郡の地頭職に補任され、建久3年(1192)に三男知基を配した。知基は桔梗山に城を築いて茂木氏を称したが、山の名を取って城は桔梗城とも呼ばれている。

 茂木氏は、鎌倉時代には御家人として承久3年(1221)の承久の乱の際にも勲功を上げ、この茂木以外にも各国に所領を得ていた。鎌倉幕府滅亡の際には、当主知貞は後醍醐天皇方に属したが、建武政権に不満を持った武士が足利尊氏を支持すると、知貞もこの動きに同調したようで、後醍醐天皇方の有力武将北畠顕家などと戦っている。

 その後、知貞や子の知世は、南北朝時代には一貫して北朝方について武名を轟かせたといい、城は知貞の代に拡張改修され、一応の完成を見たようだ。ただし、知貞が留守にしていた建武3年(1336)に1度落城しており、その後、帰ってきた知貞がすぐに奪回している。

 室町時代の関東地方は、幕府の出先機関である鎌倉公方が統括していたが、鎌倉公方足利持氏関東管領上杉禅秀こと氏憲が対立した、応永23年(1416)に上杉禅秀の乱を経て、持氏は関東地方での専制化を進め、やがて、中央からの独立性を警戒する幕府との確執が起きた。

 この対立の間に立ったのは、関東管領に就いた上杉憲実だったが、専制化を制止しようとする憲実と持氏の関係は悪化してしまい、持氏が憲実を討とうとして永享10年(1438)に永享の乱が発生する。そして、憲実から救援の依頼を受けた幕府は、同年末から翌年にかけて持氏を追い詰め、自害させた。

茂木城縄張図

 これらの関東の動乱で茂木氏は、持氏を支持していたと見られるが、その動向ははっきりとせず、持氏没落による影響は見られないようだ。当初は持氏を支持し、後に幕府側に通じたのかもしれない。だが、永享12年(1440)に、結城合戦の端緒となる、持氏の遺児安王丸と春王丸の挙兵がこの城であったといわれ、鎌倉公方への忠誠は捨てていなかったようだ。

 その後、鎌倉公方は、諸豪族の要望で持氏の遺児成氏が擁立されたが、憲実の子で関東管領に就いた憲忠とは仇敵の子同士という関係であり、必然的に対立が起こり、享徳3年(1455.1)には成氏が憲忠を謀殺した。これにより、関東全体を巻き込んで足利方と上杉方に分かれた享徳の乱が始まるが、その頃の当主知行は、上杉方に属して康正2年(1456)から公方方の攻撃を受け、数ヶ月の籠城の末に降伏し、以降は公方方として活動している。

 戦国時代に差し掛かると、内訌を克服した常陸守護佐竹氏の勢力が増大し、茂木氏は佐竹氏と同盟を結んだ。以後、佐竹氏に味方して同族の宇都宮氏や那須氏と戦うなどしたが、一貫して味方していたわけではないようで、永禄9年(1556)の那須氏と佐竹氏の争いの時には、佐竹家臣長倉氏らに攻められて茂木城が落城している。

 この落城の後、茂木氏は事実上佐竹氏に隷属したらしく、上杉謙信の関東進出以降は、佐竹氏と共に上杉勢と共同して北条氏と戦い、謙信没後は関東の情勢が北条氏と佐竹氏を中心に展開する中、引き続き佐竹氏に味方し続けたようだ。

茂木城本丸の土塁から二ノ丸方向の眺め

 そんな中、天正13年(1585)には茂木城が北条氏と結城政勝の連合軍に攻略されているが、佐竹氏の援軍を得て奪回を果たしており、この後も益子氏や、それを応援する結城氏との連合軍と戦い、勝利している。

 天正18年(1590)の小田原の役で北条氏が滅び、豊臣政権が成立した後は、対北条を軸に秀吉に従った佐竹氏は常陸を安堵され、関東の親秀吉勢力として期待を受け、茂木氏の当主治良も、佐竹家臣として引き続き茂木を領した。その後、治良は文禄3年(1594)に家中の異動で常陸小川城に移され、同じく佐竹家臣であった須田盛秀が茂木に入部したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で積極的に家康に味方しなかった佐竹氏は秋田へ移封となり、盛秀もこれに従ってこの地を去っている。

 その後は、しばらく領主がいなかったが、細川忠興の弟で兄の下から出奔した興元が、改めて幕府から功を評されて慶長15年(1610)に茂木を領して立藩した。しかし、麓の盆地に陣屋を築いたため、城自体は廃城となっている。

 現在の城地は、江戸時代に耕地や山林となっていた割に保存状態が良く、遊具がある本丸を始め、芝生が張られた二ノ丸、三ノ丸や、橋で連結された出丸、本丸西側の土塁と空堀など、見るべき個所は多い。特に千人溜り周辺は、各郭から兵を集合できる攻撃面と、周囲の郭から包囲攻撃できる防御面の思想が見られるようで面白い。城の規模自体も、茂木氏の勢力から考えるとなかなか大きく、累代に渡る改修と須田氏時代の改修があったことを示している。

 公園としては、駐車場が広く、整備され過ぎている感は若干あるものの、ピクニックや散歩にも最適で、地元の人に親しまれているのでないだろうか。

 

最終訪問日:2001/9/28

 

 

訪れた日は、午前中は雨で濡れ続けたんですが、茂木に入ってからは急速に天気が回復しました。

雨から急に晴れたので、茂木城はすごく明るいイメージとなっています。

さすがに足元は良くなかったですが、天気が良くて清々しかったですね。