Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

佐野城

佐野城の現地解説板

 佐野城があった場所には、藤原秀郷の曾祖父藤成が平安時代初期に館を構えた場所という伝承も伝わっているが、藤成の官歴からは下野国との関連が見出しにくく、あくまで伝承に過ぎないのだろう。

 現在に遺構として残っている近代城郭が築城されたのは、慶長7年(1602)のことで、高台が春日岡と呼ばれていたことから、春日岡城や春日城とも呼ばれる。

 築城のきっかけとして伝わるのは、累代に渡って佐野を領していた佐野氏の当主信吉が、江戸城の火災をいち早く発見して江戸へと駆けつけたが、逆に居城から江戸城を見下ろすとはけしからんとされた逸話を元にするのが、最も有名だろう。

 だが、この江戸城火災展望説以外にも、豊臣家縁故説や関東山城禁令説などもあり、本当の理由ははっきりしない。江戸城火災の時の逸話がもし本当ならば、江戸の防衛に関して臆病なまでに気を使った江戸幕府が、関東に山城があることを嫌い、山城を廃城にする口実として、江戸城を見下ろすのはけしからんとこじつけたというのが、妥当なところだろうか。

 理由はさて置き、信吉は居城であった関東七名城にも数えられる唐沢山城を廃し、この地に新城を築いて慶長12年(1607)に移った。だが、信吉自身が慶長19年(1614)の大久保長安の事件に連座して改易となってしまい、城も完成目前にして廃城となってしまう。後に佐野氏は、旗本として命脈を保つ事ができたのだが、城自体は再興されることもなく、築城開始から廃城まで僅か12年という短命の城となった。

 城は、工事途中ながら、東西105m、南北400mの城地を残しており、近世城郭らしく城下には堀を廻らし、惣構えを持っている。城の中心部分は、標高55mの本丸から堀切を介して南へ二ノ丸、三ノ丸と続き、北には北出丸を配置しているが、3万5千石の身代を考えてか、近世城郭の規模としては、そこまでの大きさを持っていない。唐沢山城が現在でもしっかりした形で残っている事を考えると、佐野城は政庁機能を重視し、戦時は唐沢山城の活用も視野に入っていた可能性がある。

 現在は、駅の北側、本丸を中心に三ノ丸から北出丸にかけての範囲が城山公園として整備され、佐野市街が一望できるが、城が工事途中で廃城になったためか、公園整備のためか、堀切と土塁は明確にあるものの、遺構の数自体は少なかった。城址というよりは、都市公園の趣の方が強い城跡である。

 

最終訪問日:2001/9/29

 

 

訪れた時は既に日も暮れている時間で、目では遺構を確認できましたが、残念ながら写真は何かよくわからないものしか写っていませんでしたね。

この時間に城を訪れたりするといつも感じますが、肉眼の性能って本当にすごい。

詰め込まずにもっと早い時間に行けって話でもありますが笑