説明するまでもなく、徳川家康こと東照大権現を祀る神社で、全国の東照宮の総本社的存在であり、正式には日光が付かず、単に東照宮という名称である。
この日光には、古代から自然崇拝の対象であった日光連山があり、奈良時代の天平神護2年(766)には、男体山の麓に勝道上人が修行のために紫雲立寺を開いた。つまり、これら山岳信仰と山岳仏教、修験道が習合した霊場であり、武士が勃興して以降は、関東武士の尊崇をも集めていたという。
江戸幕府を開いた家康は、元和2年(1616)に没し、当初は駿河の久能山に埋葬されたのだが、家康は遺言として、一周忌が過ぎたなら、この日光山に勧請せよと言い残したとされる。その理由は、関八州の鬼門を押さえて子々孫々を守護するためだったといい、2代将軍秀忠は、翌元和3年(1617)に遺言通り日光へ社殿を造営した。
日光への改葬を巡っては、南光坊天海と以心崇伝の政治的争いの影があり、最終的には天海が主張する山王一実神道によって葬られ、朝廷から東照大権現の神号が下されている。
世界中のどの王朝でも見られるが、政権を安定させるためには、創始者の神格化が避けられず、遺言とは言いつつも、幕府中枢によって守護神化がより進められたと見ることもできるだろうか。ちなみに、東照宮の宮号は正保2年(1645)で、東照宮となったのはこれ以降のことである。
現在、8つの国宝と34の重要文化財を始めとして、日光東照宮の建造物は合計で55棟あるが、これは3代将軍家光が寛永11年(1634)から2年に渡って行った寛永の大造替で建立された35棟の建造物や、その前後に諸大名によって奉納された建造物であり、秀忠時代の初期の建造物ではない。初期の社殿などは、徳川氏の出自とされる新田流世良田氏の発祥の地である、上野国世良田に移され、世良田東照宮として現存している。
また、この大造替により、秀忠の時代からは一転して、江戸時代初期の技術や工芸の粋を集めた、泰平の世らしいきらびやかな宮となった。
東照宮を散策して思うのは、全体を通して非常に華美なことである。これは、創始者の残した遺産が使え、権力機構も草創期を過ぎて安定し、徳川幕府に最も力のあった家光時代の象徴だからだろう。一般の神社のイメージである静謐とは正反対で、神社神宮としては驚く部分もあるのだが、一時代の空気を表すものとして、建物から当時の昂揚した雰囲気が感じられて面白い。
一方で、奥宮まで歩を進めれば、静かな木立の中に鎮まる家康の墓が在り、しっかりと祀る雰囲気もあった。この華美と静謐の二面性が、東照宮の特徴と言える。
平成11年(1999)に、人類遺産としてユネスコの世界遺産に登録されたことで、外国人の観光客が非常に増え、残念ながらかなり観光地然としているのだが、これはどこの有名寺院でも同じようなもので、致し方ないところだろうか。とは言え、その豪華絢爛さはほかに無く、1度は見ておくべきかもしれない。
最終訪問日:2014/5/10
比叡山や高野山のように宗教がメインとなっているのではなく、元々からして政治的な色彩の濃い性格の神社ですから、バブル的なキラキラした感じがあって、神社とは別の施設のような雰囲気ですね。
2014年に訪れた時は、観光客もかなり多かったんですが、折り悪く小学高の修学旅行生と時間がぶつかってしまい、どえらい混雑の中の見学となりました笑
修学旅行などでも有名な場所だけに、ある程度落ち着いて見学したいならば、春や秋の修学旅行シーズンは避けた方が賢明かもしれないです。