Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

武田神社

躑躅ヶ崎館跡の石垣と武田神社の鳥居

 戦国時代の甲斐武田氏の当主である信虎、信玄、勝頼の3代が本拠とした躑躅ヶ崎館跡に建立された神社で、祭神は武田信玄

 躑躅ヶ崎館は、甲斐武田氏の内訌を収めた武田信虎が、永正16年(1519)に石和から本拠地を移すために築いた居館である。ただし、信虎の子で祭神となっている信玄は、この場所で産まれたわけではなく、ちょうど駿河の今川軍が甲斐に侵入していた頃で、信虎夫人は積翠寺かその背後の要害山城に避難しており、そのどちらかで誕生したという。その後、信玄による信虎の追放を経て信玄が武田家全盛期を築き、信玄の子勝頼が天正9年(1581)に新府城へ移るまで、62年に渡って躑躅ヶ崎館は本拠であり続けた。

 天正10年(1582)の武田氏の滅亡後、躑躅ヶ崎館の跡地には、新たに甲斐の領主となった織田家臣河尻秀隆が入って再び治所となったが、その数ヶ月後には本能寺の変が発生して秀隆は武田旧臣の蜂起で討たれてしまう。

 そして、無主の地となった甲斐は、徳川氏と北条氏の争奪の地となったが、やがて和睦によって徳川氏の支配するところとなり、家臣の平岩親吉が甲斐の支配拠点として活用した。

 同18年(1590)の北条氏の滅亡後には、徳川氏が関東へ移されたため、家康の監視の意味もあって秀吉に近しい一門や家臣が甲斐を任され、この館跡や背後の要害山城を使っていたが、浅野長政・幸長父子が甲府城を完成させると、治所としての機能は廃止となる。その後、主郭部以外の部分は、やがて開墾されて田地になっていったようだ。

 神社創建のきっかけは、大正4年(1915)の大正天皇即位に際して信玄に従三位が追贈されたことで、県民に尊崇されていた信玄を祀る神社の建立機運が高まり、同8年(1919)に社殿が竣工した。以来、信玄の命日である4月12日に例大祭が行われ、例大祭から発展した、武田二十四将に扮する甲冑武者や姫などが行列で練り歩く信玄公祭りも、同時期に甲府市街で開催されている。

 武田神社甲府周辺でも最有力の観光スポットで、訪れた時も堀の前の駐車場が一杯になっているほどだった。

 神社の宝物殿を覗けば、武田軍に翻っていた孫子の兵法を記した旗や、当時使われていた軍扇、甲冑、そして武田二十四将図など、武田好きの人には堪らない品々が展示されているほか、信玄夫人が三条家の出であったことから、神社創建を祈念して三条実美から寄贈された同家伝来吉岡一文字という重要文化財指定の刀も展示されている。

 また、躑躅ヶ崎館自体の雰囲気も十分に残っており、神社東口には当時の館大手が部分的に復元され、当時の様子を知ることができるようになっていた。ちなみに、神社南の正面の橋は、武田神社にとっては象徴的な場所ではあるが、神社創建時に新たに通された部分で、戦国時代の頃の旧状とは違っている。

 

最終訪問日:2012/10/14

 

 

現在の観光のイメージでは、山梨と言えば武田信玄武田信玄と言えば武田神社という図式のような気がするんですが、印象が歴史に偏り過ぎですかね?

神社が丘陵地に鎮座するのもあって、神社まで続く一直線の道と甲府市街までを望むことができるこの場所からの景色は、最盛期の武田氏の威容が偲ばれるような、印象的な情景でした。