琉球王朝の首城。シュリジョウやスイグシクと読む。
現在の沖縄県下に、豪族などの支配勢力が現れ始めたのは、12世紀後半である。その頃の王として、源為朝の子という伝承も持つ舜天の名があるが、舜天は実在が疑われており、この時代は、各国に存在する神話時代にあたるのだろう。
この後、舜天の王統である義本から、摂政であった英祖が正元元年(1259)に禅譲を受けて王朝を開いたが、正平4年(1349)の英祖王統5代西威王の没後、家臣達は幼主となるのを嫌い、人望のあった浦添按司察度が翌同5年(1350)に擁立され、王朝を開いた。ただ、察度が英祖王統の流れである読谷山按司と争っていることを考えると、実質的にはクーデターだったのだろう。また、この少し前に沖縄本島北部に北山王朝が、本島南部に南山王朝が成立している。
この察度の開いた王朝は、明の冊封体制下で中山王国となり、同じく冊封体制下にあった北山王国や南山王国と共に、三国が割拠する三山時代が100年ほど続く。
この三国は、互いに激しく争ったが、やがて中山王国に尚巴志が出て永享元年(1429)に三山を統一し、実質的に初めて沖縄全土を統一した琉球王朝が誕生した。
ちなみに、この頃の中山王国の首城は、史実かどうかに議論があるものの、浦添城であったとされる。そして、応永13年(1406)の巴志の侵攻による察度王統の滅亡により、首里城へ首城が移され、沖縄本島の首城としての首里城が歴史上に登場することとなった。

首里城の築城時期は、はっきりと判っていないのだが、発掘調査の結果から、中山時代にはすでに城として用いられたと推測されており、13世紀から14世紀にかけて築城された他の沖縄の城と同様に、その頃に城として成立したと考えられている。
この最初に沖縄本島を統一した王朝は、第一尚氏王統と呼ばれるが、王統の第7代で、6代琉球国王である尚徳王の文明元年(1467)の急死後、伊是名島の農夫出身の金丸が即位し、第一尚氏王統は絶えてしまった。
この経緯については、史書には、金丸が群臣に推されて王位に就いたとあるが、別な推論もあるようだ。すなわち、尚徳王は英邁であったが、父で前王の尚泰久王に重用された金丸と合わず、結局はその台頭を招いたようで、この即位は金丸によるクーデターではなかったかとする説である。
実際、金丸が主導したものかどうかは不明であるものの、尚徳王の世子を擁立する勢力が軍事的に敗れたことが史料からは読み取れ、血が流れたことは間違いないようだ。だが金丸は、対外関係に配慮して名目的に尚氏を継ぎ、尚円王と名乗ったため、対外的には尚姓の王統が続くこととなった。これを第二尚氏王統と呼ぶ。
第二尚氏王統の全盛期は、15世紀から16世紀に掛けての3代尚真王の頃で、北山と南山に強い支配力を及ぼして各地の按司の首里への集住を進めるなど、王を頂点とする中央集権化を進め、宗教も整理した。また、活発な交易を展開し、中国の明と朝貢貿易を行ったほか、日本や朝鮮、東南アジア諸国とも活発な交易や外交を進めている。

しかし、16世紀の後半になると、スペインやポルトガルによる南蛮貿易が活発になり、琉球王国の交易は衰退した。そして、戦国期を終えた日本からの圧力も強まり、ついには江戸時代初期の慶長14年(1609)に、薩摩藩島津氏によって軍事攻撃され、首里城も降伏開城に追い込まれてしまう。
これにより、日本の薩摩藩を通じた江戸幕府と、中国の明、清王朝に両属する形でなんとか琉球王国は存続したが、対外貿易の窓口を琉球に求めた薩摩藩は、琉球王国の貿易の主導権を握り、江戸時代を通して巨利を得続けることとなった。
江戸時代の薩摩藩の支配が終わり、明治政府が成立すると、琉球王国は明治5年(1872)に琉球藩となり、同12年(1879)には琉球藩も廃止され、琉球王国は完全に消滅することとなる。この一連の流れを琉球処分と呼ぶが、琉球王国が日本と中国の両属という形であったため、日中間で帰属問題が起こっている。
後に、台湾での琉球漁民殺害に対して日本政府が台湾へ出兵したため、沖縄が日本領土であると国際的に認知され、最終的には明治27年(1894)から翌年に掛けての日清戦争に勝利したことで、論争自体は自然消滅したのだが、その間、沖縄の近代化は遅れた。
琉球王国の中心であった首里城は、王朝の成立以降、本格的な首府として整備され、第一尚氏王統時代に1度、江戸時代に2度の焼失に遭いながらも、代々の王が門の創建や修復を行い、拡張されたという。琉球処分後は、軍営地や学校用地とされた時期を経て、戦前には正殿や4つの門が国宝に指定されていたが、残念ながら沖縄戦で4度目の焼失に遭い、地下に司令部の壕があったことから、徹底的に破壊されてしまった。

首里城の立地は、経済の中心であった那覇港を見下ろす丘陵にあり、当初は軍的目的の要素が強かったと思われるが、後の争乱の無い時代の再建や拡張により、行政拠点や権威を示す首府としての性格が強い城となっている。また、緩やかな曲線を持つ石灰岩の石垣で二重に囲われ、遠目には沖縄独特の城という雰囲気を持つが、内部は中国における宮城の性格が強く見られ、正殿等の建物に囲まれた御庭と呼ばれる方形の広場などは、その際たるものだろう。
現在の首里城公園は、アメリカ統治時代の昭和30年代から徐々に復元が始まり、琉球大学が城地から移転した昭和54年(1979)以降は、本格的に復元が進んだ。そして、平成4年(1992)11月3日に復元工事の大部分が完了し、史跡公園として開園している。しかし、令和元年(2019)10月31日の未明に正殿からと見られる火災が発生し、正殿と北殿、南殿が全焼してしまった。
上記のように主要3棟が焼失してしまっているが、訪れた当時は朱塗りの建物と赤瓦が南国沖縄の陽光に映え、とても美しい城だった記憶が強く残っている。また、焼失前の正殿の内部構造や細かい装飾、漆の美しさなどに目を惹かれ、日本本土の城とはまた違った雰囲気が漂い、独特の良さがあった。焼失してしまったのは非常に残念ではあるが、再建の動きが進んでおり、早く再建されるのを願うばかりである。

最終訪問日:2001/9/5
訪れたのが沖縄サミットの翌年ということもあってか、非常に多くの人が訪れていました。
混雑してるな思いながら正殿などを見学した記憶があります。
当時は、まだまだ二千円札が出回っていましたが、本土ではあまり見掛けなくなりましたね。
ただ、今でも沖縄では二千円札が多く流通しているそうです。
キャッシュレスが進んで現金を使う機会が少しずつ減ってますし、記念に1枚持っておきたいところですね。