Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

鹿屋城

 亀鶴城とも呼ばれる平山城

 「古城主由来記」には、島津久経の時代に津野四郎兵衛が鹿屋城主であったと記されているといい、現地案内板には、それは承久年間(1219-22)の頃と書かれていたが、久経は元寇の頃の島津氏の当主であり、年代がかなり違う。

 一方、津野四郎兵衛の名としては、元寇の少し前や正中年間(1324-26)に、串良の地頭として三国名勝図会などに登場する。この四郎兵衛は島津一族で、鹿屋院の地頭であったことから、築城説としては、鹿屋院の地頭だった時代に四郎兵衛が築いたとするのだろう。だが、鹿屋院を治めた期間はそう長くはなかったのか、四郎兵衛が前述のように鎌倉時代末期に掛けて串良院南部へ進出している間に、鹿屋院は肝付宗兼によって奪われてしまったようだ。

 このように、鹿屋城の事績については、いくつかの説があるのだが、史料的な裏付けに乏しく、不詳というのが実情だろうか。

鹿屋城二ノ丸には亀鶴城址碑が建つ

 その後、肝付氏の庶流である萩原氏や鹿屋氏が鹿屋を領したとされるが、当時からこの城に在ったかは不明である。鹿屋氏は、鹿屋院の弁済使として入部し、南北朝時代には、島津氏に仕えた忠兼が見えるが、これまた鹿屋城との繋がりはよく分からない。ただ、後に鹿屋氏が居城としたのは確実のようだ。

 戦国時代に入ると、大隅では肝付氏に兼続が出て大いに勢力を伸長させ、この鹿屋もその支配下にあったと見られる。

 兼続は当初、近世島津氏の祖となった島津忠良と婚姻を結び、良好な関係を築いていたが、永禄年間(1558-70)初頭にその関係が崩れ、両者は激しく戦うようになる。だが、兼続は尚も北へ勢力を拡げ、やがて最大版図を築いた。

 しかし、永禄9年(1566)、もしくは天正元年(1573)に本拠高山城が陥落し、それを悲観して自刃したとも伝わっており、この前後に鹿屋一帯も島津氏によって制圧されたのではないだろうか。

鹿屋城二ノ丸北端の雛壇のような構造物の二段目

 この辺りは、やや歴史ではなく物語の空気が強くなるのだが、それぞれの説で年代に異同はあるものの、永禄年間末から元亀年間(1570-73)に掛け、大隅での肝付氏の勢力が減退したことは、歴史的には確かなことである。

 その後、肝付氏は島津氏に臣従し、天正8年(1580)の領地再編で、高山や鹿屋などは、筆頭家老の伊集院忠棟に与えられた。忠棟は、鹿屋に城を築いて今に残る鹿屋城を形造ったが、天正14年(1586)から翌年に掛け、島津氏が中央を制した秀吉によって討伐を受けると、忠棟は降伏を説き、その和睦交渉の過程で秀吉に優遇されたことから、島津家中で浮いてしまう。

 忠宗は、文禄4年(1595)に庄内都之城8万石に封じられたが、これも秀吉の口添えがあったためといわれ、その動向を危惧した島津忠恒により、慶長4年(1599)に伏見で手討ちにされてしまった。そして、子の忠真は庄内で叛乱を起こし、島津氏が翌年の関ヶ原の合戦へ大軍を送ることができない事態へと繋がって行く。

鹿屋城中城と今城の間の切り立った堀切と鹿屋城址

 忠棟が庄内へ移った後の鹿屋城には、島津久信が入城したが、城自体はしばらくして廃城になったといい、久信は慶長9年12月(1605.2)に垂水へ移ったとされていることから、廃城はこの時期だろう。ただ、久信自身は隠居後に鹿屋に戻ったようで、約30年後に鹿屋で病没している。

 城は、肝属川に東を、下谷川に西を削られた丘陵地に築かれており、典型的なシラス台地を利用した城と言え、標高は低いものの堀が深く、削平地が広い。

 縄張は、現状からは非常に把握し辛いのだが、東に大手を開き、本丸と二ノ丸を南北に並べ、そこからシラス台地の深く切り立った堀で区画しながら中城と今城、そして松尾城と西へ延ばしていたようだ。また、現在の北田町辺りには湧水池があり、水堀の機能を果たしていたという。

 現在の城跡は、二ノ丸と今城が公園化され、本丸は貯水池になっている。公園西側には大きな道があるのだが、これは空堀跡と見られ、その道沿い中腹に案内板があり、そこから東の今城と二ノ丸へ道が延びていた。その道の左手が中城で、断崖のような切岸がかなりの圧迫感を持って出迎えてくれるが、残念ながら中城に入る道は今は無いようだ。右手の今城は2段構成で、広くはないのだが、土塁も確認でき、古城の趣が強い。

鹿屋城今城の下段から上段を見る

 この中城と今城を抜け、空堀を越えると二ノ丸があり、ここには展望台も設けられ、公園としてきちんと整備されていた。本丸に近い北側には、雛壇のような地形があるが、これがどのような機能を果たすのかはよく分からないものの、東側にも5mほどの基壇があり、何か櫓などの建物があったのではないだろうか。

 このほかには、本丸は貯水池となって入ることができないのだが、公園北側にも明らかに城跡らしき地形があり、全体としてはもっと大きな城だったことが現地から実感できる。

 国道269号線沿いに在ることや、城山公園に駐車場が整備されていることもあって、訪れるのは非常に簡単な城ではあるのだが、廃城時期が早かったことも影響してか、城跡一帯は宅地化や市街化が進んでいる場所でもあり、旧状をあまり残していないのが残念なところだ。

 二ノ丸の展望台から市街地を眺めると、肝属川沿いに当時の城下町がどのように営まれていたのかがありありと想像できる城で、経済が重要視され始めた近世の入口という時代背景が感じられる城である。

鹿屋城二ノ丸から鹿屋市街

 

最終訪問日:2018/10/14

 

 

訪れた日は、鹿屋の市街でイベントで開かれていて、なかなか活気のある公園。

本丸が貯水池となっていて、立ち入りできないのは残念でしたが、あちこちにシラス台地らしいお城の痕跡があって、散策し甲斐のあるお城でした。