
現地城址碑には櫛崎城とあるが、串崎城とも書く。
天慶3年(940)に藤原純友配下の稲村景家が築城したとの伝承があり、源平合戦の際には、義経が紀伊国熊野、豊後国臼杵、長門国櫛崎の船を集めたとあることから、中世の城という姿形ではなかったと思われるものの、馬関海峡の東端に位置する海上交通の要衝として、水軍の拠点があったものと考えられる。
実際に現在の場所に城が築かれたのは、戦国時代中期から後期に掛けてで、大内氏配下の内藤隆春が築城したという。ただ、隆春の父興盛が長門守護代として居城したという説もあり、ずっと以前からあった城郭の機能を隆春の時に改修強化しただけという可能性も考えられるだろうか。
隆春は、天文20年(1551)の陶隆房(晴賢)の謀叛によって大内義隆が没した後、陶氏に味方した甥隆世と袂を分かち、妹婿が毛利元就の嫡子隆元ということあって毛利氏に接近していく。そして、同24年(1555)の厳島の合戦では毛利軍に味方し、やがて大内氏と運命を共にした隆世に代わって内藤氏の家督を継いだ。
このように、内藤家は一時的に分裂していたのだが、櫛崎城がどちら側の城であったかなど、詳細なことはよく判っていない。
時代が下った毛利治世下では、内藤一族でその家臣であった勝間田就盛や盛道、盛長といった勝間田一族が在番していたことが「温故私記」などに見える。海上交通の要地であった馬関海峡の押さえとして、機能していたようだ。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、毛利氏は大幅な減封を受け、さらに本拠であった安芸からも退去させられ、周防と長門の2ヶ国に押し込められた。
このような困難な情勢の中、元就の四男元清の子で、従兄弟にあたる長州藩初代藩主輝元の養子となっていた秀元が、長府一帯を拝領し、支藩の長府藩が成立する。この時、藩主秀元が櫛崎城をその居城と定めて慶長7年(1602)頃から再築し、新たに雄山城と名付けた。
しかし、藩の首城として機能した期間は短く、早くも元和元年(1615)の一国一城令で廃城となってしまい、これ以降は城のすぐ近くに構えた陣屋に政庁が移されている。
城は、海のすぐ近くにある、標高20m強の低い丘陵部に築かれており、海側は断崖と海で守りを固めた海城の平山城で、陸地側は海水を引き入れた大きな薬研堀で区画し、防御線としていた。
縄張は、現在の展望台付近が本丸で、その南は当時はもう海となっており、本丸には南と東に付櫓を備えた複合天守が建てられていたことが判明している。そして、そこから北に2段の二ノ丸が続き、二ノ丸の海側を詰ノ丸、反対の西側を西ノ壇と呼んでいた。北は現在の豊功神社辺りまでが城内で、松崎八幡宮が祀られ、北ノ丸と称していたようだ。
また、城の北西側には舟入が設けられ、毛利水軍の拠点として機能していたとされる。現在も小さな湾入部として地形に名残があるが、この部分は関門海峡からは丘陵の影となり、海流の影響も受けにくい場所だったのだろう。
廃城後に、東の豊浦高校付近に陣屋が整備されたが、城跡には焔硝櫓や船手組屋敷が置かれており、陣屋の一角として活用されていたようだ。いざという時に、すぐ城として活用できるようにしていたのかもしれない。実際に幕末には、海峡監視の砲台場としての役目を果たしている。
現在、城跡の中やその近くまで民家が建っていて遺構が確認しにくく、当時の縄張がどうであったか現地からは判りづらいが、豊浦高校側には見事な高石垣が風雪に耐えながら民家の土台として頑張っているほか、海際の丘にも所々石垣が残っていた。
特に西側の高石垣は、江戸時代初期の野面罪と算木積で造られたものであり、武骨さと初期の洗練性が感じられる。ちなみに、高石垣の北端の城址碑のある場所は、かつて大手であった松崎口二重櫓の跡であるという。
本丸から二ノ丸だったと思われる場所には、最初に訪れた際は、大きな鯨の展望台のようなものが目立つだけだったが、次に訪れた時には、関見台公園として城らしい雰囲気が漂うように整備されており、天守台を模した石垣が復元されていた。これがどの程度忠実に再現されたものかは、案内板が無かったので分からなかったが、城跡としての雰囲気はかなり良くなったのではないだろうか。
最終訪問日:2001/11/10
展望台も立派でしたが、この城跡で一番目を引いたのは、高石垣の上にまるで多聞櫓のように民家が建ち並んでいることでした。
城地が民間に払い下げられた例は多いですが、ここまでダイレクトに使われているのは珍しく、城好きには垂涎の的ではないでしょうか。
民泊でもやっているんだったら、櫓に泊まる感じで1度泊まってみたいですね。