Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

与板城

与板城縄張図

 上杉景勝の家老を務めた直江兼続が築城し、居城とした山城とされるが、詳しい築城年代は不明である。一説には、謙信の頃の重臣である直江景綱の築城ともいう。

 通説通りに兼続が築城したと考えると、それまで景綱やその養子信綱が本拠としていた本与板城と与板城は標高や山容がよく似ており、どのような目的で移ったのか、ちょっと理由が掴みにくい。防衛面ではそれほど違いがないように思われ、両者の位置も2km弱と近いことから、城下町の将来的な発展という要素も少なそうで、養子に入った兼続による人心一新のためなのだろうか。

 また、この通説に従えば、築城時期は、少なくとも天正9年(1581)に信綱が春日山城で争いに巻き込まれて斬殺された後、兼続が直江家の名跡を継いで以降の築城ということになる。

 一方、景綱の時代にすでに築かれていたとすると、景綱は本拠を引き続き本与板城に置いていたと考えられていることから、出城の役割を持っていたのだろう。そして、兼続の時代に本城として新たに改修されたということになる。

 いずれにしても、与板城は慶長3年(1598)の上杉氏の会津転封によって廃城となり、城の役目を終えた。

 城は、107mの山頂に本丸を置き、南西に向かって二ノ丸、三ノ丸を設け、さらに堀切を介して千人溜と呼ばれる大きな削平地を持っており、本与板城と似た構造をしている。また、本丸から東方向には、付随する郭が続いていたようだ。規模としては中規模程度で、比高はそれほどないものの、山城の体を成しており、峻険な山の地形を防御力の要とした中世の山城から、大きな郭を持つ近世山城への過渡期の城といえるだろうか。

 現在は、本丸跡に小さな社が建っているのみだが、遺構は良い状態で保存されており、虎口や土塁が明確に残っているため、散策しても見所があって面白い。ただ、遊歩道などは人が頻繁に通った感じではなく、訪れる人はまばらのようだ。

 ちなみに、江戸時代には牧野氏や井伊氏の与板藩というのがあったが、両氏はこの城を居城とせず、陣屋を設けたのだが、そちらも与板城と呼ばれることがある。

 

最終訪問日:2001/9/18

 

 

ざっと見た感じではあるんですが、与板城も本与板城もかなり似た感じなんですよね。

それだけに、城を移した理由が凄く気になります。