Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

蔵王堂城

 城跡のすぐ隣にある金峯神社は、江戸時代以前の神仏習合の時代には蔵王権現と呼ばれており、その蔵王堂の横に築かれたことが、蔵王堂城の名の由来という。

 城の前身は、南北朝時代北朝方だった揚北の中条氏が置いた陣で、正平7年(1352)に南朝方の風間信昭らに攻められたことが軍忠状に見える。

 寺社は、溝や伽藍が簡易的な城として使えるほか、寝泊りや使者の応対にも最適で、本陣として使われることは割と多かった。しかしながら、陣跡を利用して本格的に城が築城された際に、寺社を移転させずにそのまま城と並存させたというのは珍しいかもしれない。恐らく、僧兵を擁していた金峯神社の持つ武力の影響もあったのだろう。

 蔵王堂城を本格的に築城して本拠としたのは、古志長尾氏である。越後守護の上杉氏の下で越後守護代を務めた越後長尾氏の祖景恒には、長景、景晴(景春)、高景という子がおり、諸説あるものの、景晴の立てた家が古志長尾氏という。

 景晴は、信濃川の水運を扼し、蔵王権現門前町でもあったこの地を押さえ、築いた蔵王堂城を中心として古志郡や刈羽郡を支配した。ただ、蔵王堂城は平城であり、防衛拠点というよりは支配拠点、行政拠点としての役割が強かったのだろう。

蔵王堂城本丸土塁上にある城址

 景晴の後、古志長尾氏は、系図に諱が現れない程度の詳らかではない時代が続き、3代後の備中守、そしてその子孝景の頃にようやく事跡が見えてくる。

 備中守の時代には、景晴の弟高景の系統である守護代家の邦景・実景父子が上杉房定の守護就任に伴って追討され、邦景の甥で房定を擁立した頼景が守護代に就くという事件があった。この時、備中守、そしてその跡を継いだ孝景は、頼景に味方し、房定の重臣として仕えている。

 房定の時代の越後は、関東の争乱をよそに安定し、やがて、房定の子顕定が惣領である関東管領山内上杉家を継いだことから、房定は上杉一族の重鎮となって威勢を誇ったが、房定の死後に越後守護を継承した房能は、守護不入の特権を制限したため、国人衆から不満を買うようになった。

 この不満から支持を集めたのが、頼景の孫能景とその子為景で、守護に比較的従順だった能景の没後、為景は房能の養子定実を擁して永正4年(1507)に叛乱を起こし、房能を敗死へと追い込んだ。これ以降、越後は戦国時代へと突入していく。

蔵王堂城本丸に建つ堀直寄の像

 この永正年間(1504-1521)の初期頃、孝景の房景は栖吉に新城を築いて拠点を移し、蔵王堂城は拠点ではなくなった。これと同時期に起こった前述の為景の叛乱の際には、房景はこれに味方したものの、永正6年(1509)に房能の兄で関東管領だった顕定が関東から越後に出兵して来ると、顕定側に寝返って翌同7年(1510)に蔵王堂城を攻撃している。このことから、拠点を移したのはこの顕定侵攻の年よりも前の7年の間に行われたようだ。

 蔵王堂城から本拠を移した理由は、蔵王堂城近辺に守護代長尾氏の領地が多かった事などが挙げられているが、為景の叛乱と定実擁立に伴う領地変更などの影響もあったのかもしれない。

 古志長尾氏が栖吉城へ移った後、城には為景の弟為重が入ったとされるが、為重の存在は野史に見えるだけで、一次史料では確認できないという。その真偽はともかくとして、要衝の地であるため、蔵王堂は以後も守護代長尾氏の直轄の城として運用されていたようだ。

一部が残る蔵王堂城の内堀

 その後、天正6年(1578)の謙信没後の御館の乱という家督争いを経て、松本修衡が城主となったが、慶長3年(1598)の上杉家の会津移封後は、与力大名と共に越後に入部した堀秀治の弟堀親良が入った。

 親良は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、一族の重鎮で家老でもある堀直政と対立し、兄の子鶴千代を迎えた上で出奔したため、直政の子で坂戸城主の直寄が蔵王堂領も後見するようになったが、その鶴千代が早世すると、直寄が蔵王堂領をも併せて領すことになり、この頃から直寄は信濃川の水害の恐れのある蔵王堂城から、長岡へ移る準備を始めている。

 しかし、慶長15年(1610)に、直寄と兄直清の対立から越後福嶋騒動と呼ばれる家中対立が発生してしまい、堀家は改易され、正当性を認められた直寄も信濃飯山へ移封となった。

 これに従い、蔵王堂城には新たに越後を与えられた松平忠輝の家臣山田勝重が入部したが、元和2年(1616)には忠輝が改易となり、同年に直寄が蔵王堂城に復帰したことで長岡城築城が改めて進められ、蔵王堂城は廃城となったという。また、現地案内碑では、長岡城完成前に直寄は移り、元和4年(1618)に牧野忠成が入部して長岡城を完成させた際に廃城にしたとしている。

蔵王堂城二ノ丸跡に在る金峯神社

 城は、信濃川とその支流が天然の堀の役割を持つという形は長岡城と同様だが、すぐ横が信濃川であり、現地を見ると、直寄が城を移した理由が解り易い。

 本丸は、現在の安禅寺、毘沙門堂観音堂の辺りを中心に方形に土塁と内堀が囲っていたとされ、現在は、その土塁と、内堀の東から南東にかけての部分が残っていた。形状から考えると、最初期の城はこの方形本丸の部分だけだった可能性が高そうだ。

 縄張図を見ると、その本丸の西に馬出のような郭を置き、東から東南にかけては二ノ丸があったが、これは現在の金峯神社の境内域である。さらに、土塁と堀を挟んで、二ノ丸の南側に柿川を堀とする形で三ノ丸があったという。

 蔵王堂城の遺構としては、本丸の土塁と内堀の一部が残っているに過ぎないが、現地を訪れたのが日曜で、蔵王堂城史跡をまもる会の方がテントを建て、活動しておられた。各地に残る城跡を始めとする史跡は、放っておけば風化していく一方であり、こういうボランティアの方々の手で整備されている所も多く、城を巡る身としては非常に頭の下がる思いである。地元の有志がしておられるかと思うが、郷土の歴史を語る証人として、今後も大事にしていただけると、城好きとしても非常に嬉しい。

 

最終訪問日:2014/5/11

 

 

城跡としては、残っている遺構は少なかったんですが、初夏の日差しが非常に心地よいお城でした。

各地のお城には保存会があったりするんですが、自分が訪れたお城の中では、蔵王堂城の会が最も活動的ですね。

城好きとして有り難い気持ちと共に、嬉しくもなります。