Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

坂戸城

 越後守護代である長尾氏の庶流上田長尾氏が居城とした山城で、上杉景勝直江兼続ゆかりの城としても知られる。国指定の史跡で、坂戸はサカドと濁って読む。

 坂戸城が築かれた時期には諸説あるが、鎌倉時代に城周辺の上田荘を領した新田氏の一族が、前身となる城郭を築いていた可能性があるという。ただ、城が存在したとしても、簡易な詰城だったと思われる。

 城が本格的に築城されたのは、南北朝時代とされるが、南朝方に属した新田氏の庶流が街道を押さえる軍事拠点として築城したとも、文和年間(1352-56)頃か貞治2年(1363)の上田長尾氏の入部後に築かれたともいう。

 だが、その上田長尾氏の創始の城は越後上田城という説もあり、実際、15世紀末頃の大木六に上州吾妻を本貫とする尻高氏の一族がいる事を考えれば、坂戸と上田長尾氏の繋がりはもっと時代が下るのかもしれない。そのほか、「穴沢文書」では、永正9年(1512)に大規模な築城工事を始めたとも見える。

 長尾氏は、相模の鎌倉党の一族で、頼朝の挙兵時に平家側に付いたことや、権力争いで滅んだ三浦氏の家臣だったことから、鎌倉時代は零落していたが、やがて、将軍となった宗尊親王に従って関東に下ってきた上杉氏に仕え、上杉氏の隆盛と共に発展し、景忠が越後守護代に就いた。

麓の御館の石垣と城址

坂戸山山頂の坂戸城実城に建つ富士権現

 この越後の守護代を継いだのは、養子とも弟ともいわれる景恒(景廉)で、景恒の子は各地に分封され、三条長尾氏、古志長尾氏、そして上田長尾氏となるのだが、上田長尾氏の祖に関しては、長子の長景という説と、その弟景晴という説がある。また、魚沼郡の妻有荘が関東管領山内上杉氏の領地だったこともあり、上田長尾氏は、越後長尾氏の流れではあるものの、在地管理者として山内上杉氏の家臣という性格が強かったようだ。

 関東の戦国時代は、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の対立を中心に、上方よりも早く争乱に突入するのだが、それは越後にも様々な形で影響を及ぼし、次第に守護代の長尾氏が権勢を得るようになっていった。そして、永正4年(1507)には、上杉定実を擁立した為景が、定実の養父房能を急襲して自刃させたため、翌々年には房能の兄で関東管領となっていた顕定が、討伐のために越後へ出兵するという流れとなる。

 

 この顕定の出兵時、上田長尾氏の景隆・房長父子は、山内上杉家の家臣として顕定に従い、山内上杉軍は為景と定実を佐渡へ追うことに成功するのだが、翌年には逆襲に遭い、劣勢を見た上田長尾氏は為景側へと寝返った。そして、関東との連絡点であった上田荘の上田長尾氏の寝返りで退路を絶たれた顕定は、長森原で一戦に及ぶも、あえなく討死してしまう。

坂戸城説明板

坂戸城実城北側の廣瀬郭

 これにより、山内上杉家の越後への影響力は失われ、上田荘の山内上杉家分は上田長尾氏が掌握し、勢力を大いに拡げた。上田長尾氏の家臣には、この時代に家臣となった家も多いのだが、それは急拡大の傍証とも言えるのだろう。また、坂戸城の本格的な築城もこの永正期とされるが、勢力の急拡大によって整備が進んだのかもしれない。

 その後、房長は、為景が定実と対立した際にも為景側として活動し、永正11年(1514)の六日市の合戦で定実側を破る功を挙げているが、天文2年(1533)に上条上杉定憲が反為景の兵を挙げると、揚北衆と共に定憲に加担し、以降は為景に対抗した。

 為景が天文5年(1536)に隠居し、後を継いだ晴景が融和路線を採って定実と和解すると、翌同6年(1537)頃には嫡子政景に為景の娘を迎えて和睦したが、晴景の弟景虎(謙信)がその武勇から家臣団の支持を集め始めると、当主となっていた政景は、景虎側の古志長尾氏との対立から晴景に与している。そして、景虎家督継承後の天文19年12月(1551.1)に叛乱を起こしたが、翌年に景虎坂戸城を攻囲したことでに降伏し、以降は景虎重臣として春日山城留守居などを務めた。

 しかし、永禄7年(1564)に、真相は不明ながら、政景は舟遊び中に溺死してしまっている。これについては、政景の叛意を察した宇佐美定満の謀略であったという説や、酔った上の事故という説などがあるが、真相は解明されていない。

 この後、上田長尾家は、嗣子であった次男顕景(景勝)が謙信の養子となったため、最終的に上田長尾家は長尾上杉家に吸収され、坂戸城も上田衆が在番する城となった。

 天正6年(1578)の謙信病没後は、景勝ともうひとりの養子である景虎の間で家督争いが勃発するのだが、これを御館の乱と呼ぶ。

坂戸城実城から小城と大城を望む

堀氏時代の本丸とされる坂戸城御居間屋敷

 この乱の初期は、実家の北条氏とその同盟勢力の武田氏の力を背景にした景虎側が有利であった。しかし、金蔵を押さえた景勝側が、それを軍資金に武田勝頼を味方に付け、北条氏の援軍に対しては、この坂戸城を改修すると共に栗林政頼や深沢利重ら上田衆が出陣して撃退した結果、景勝が景虎を自刃に追い込み、上杉家の家督を継いだ。

 ただ、乱終結後も論功などを巡って悶着があり、順調に継承が進んだわけではなかった。景勝にとっては、同格の家柄であった府中長尾氏系の家臣より、上田長尾氏系家臣の方が当然ながら信用できる上に扱い易いため、論功を通じて家臣団の主軸を上田衆に置き換えて行くという狙いがあったのだろう。

 乱後、景勝や上田衆の根拠地たる坂戸城は、支城として一層重視され、天正10年(1582)に武田氏が滅んだ後は、再び関東方面への防衛拠点ともなった。実際、滝川一益率いる織田軍が侵入を試みているが、坂戸城は持ち堪えている。

 また、景勝の右腕直江兼続も、坂戸城の城主を務めたという。ただ、これについてはいつ頃の話なのか調べてもはっきりしなかった。兼続は直江氏の名跡を継いで以降は与板城主としか出てこず、上田衆の在番として兼続も在城したことがあるという話なのだろうか。

 豊臣政権成立後、慶長3年(1598)に景勝が会津120万石へ移されると、越後は堀秀治とその与力大名が支配することとなり、坂戸城には堀直政の次男直寄が入城した。ちなみに、直政は秀治の父秀政の従兄弟で、天下の三陪臣と呼ばれた人物である。

坂戸山山頂から魚沼の穀倉地帯の眺め

坂戸城全体図

 直政は、堀家に忠節を尽くしていたが、秀治を補佐する直政と、秀治の弟秀家(親良)との間で対立があり、慶長13年(1608)の直政没後には直清と直寄の兄弟も対立した。これらの伏線が最終的に越後福嶋騒動となって露見し、同15年(1610)に堀家は改易となり、直寄は信濃飯山へ減転封されてしまう。こうして坂戸藩は廃藩となり、坂戸城も廃城となった。

 城は、西を水運としても使われた魚野川、東を皆沢川や三国川に遮られた、巻機山から北西に張り出す突端部の標高634mの坂戸山に築かれ、戦国時代の山上部分と、堀氏時代に改修拡張された麓の根小屋部分で構成されている。

 山上は、実城と呼ばれる本丸を中心に、南西の尾根線上の別峰に堀切を挟んで小城、大城という出郭を設け、実城からやや下がって桃ノ木平の郭、東側にも堀切を経た先に主水郭があった。麓部分は、御館と呼ばれる藩主居館跡を始め、その北側に家臣屋敷、南西側中腹には本丸の役目があったという御居間屋敷の平地があり、御館では立派な石垣も構築されている。

 坂戸城へは、麓からの登山となるが、450mの比高や険しさから、相応の準備が必要だ。最も一般的な薬師尾根の道は、尾根筋の上に木陰が少ないため、まともに直射日光を浴びる箇所が多い。晩春から早秋に掛けての汗をかく時期には、水分補給と暑さ対策も必須だろう。また、登山でも人気の山で、早朝でも登山客は多く、駐車場が一杯になりやすい点は注意が必要である。

 

最終訪問日:2014/5/11

 

 

ガッツリの登山になるので、なかなか大変ですが、登りさえすれば、明確な遺構と絶景が出迎えてくれ、見通しの良い城内の散策と残雪残る山々の情景が、非常に爽快でした。

しかし、朝早くに訪れたのに、あんなに登山客が多いんですね。

かなりびっくりしました。