Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

古河城

 築城は、時期は不明ながら、源頼朝の家臣であった下河辺行平といわれる。

 下河辺氏は、藤原秀郷流である小山氏の一族で、小山政光の弟行義が、古河を含む一帯を開拓し、その私領を源行政の仲介で寄進した。これによって下河辺荘が成立し、行義はその荘司となって下河辺を名字としたことから、武士としての下河辺氏が始まる。この下河辺荘は、後に八条院領となっているが、行義や子の行平は、変わらず下河辺荘の荘司として勢力を培い、武士として頭角を現して行く。

 行義はその後、治承4年(1180)に以仁王と共に挙兵した行政に従い、消息不明となってしまうが、子の行平は頼朝に従って栄達し、有力な御家人となっている。ただ、行平の子孫は次第に勢力を衰えさせたようで、やがて北条氏の家臣である御内人となり、古河一帯も実質的に北条氏の支配となったようだ。

 下河辺氏は、朝行の時代の永徳2年(1382)に、南朝方に与した小山氏の攻撃によって古河城が落城してしまい、没落した。以降の古河城は、小山氏の本拠である小山城の支城として機能していたようだ。

 古河城が歴史上で有名になるのは、鎌倉公方足利成氏が長禄元年(1457)に入城し、古河公方の本拠となってからである。

 室町幕府は、成立当初から東国の抑えとして一族を鎌倉に配したが、その鎌倉公方の4代目足利持氏は、関東管領上杉憲実やその背後の室町幕府と対立し、永享10年(1438)から翌年にかけて永享の乱を引き起こした末、幕府に滅ぼされた。

 持氏の子成氏は、辛くも難を逃れ、関東諸豪族の要望を幕府が汲み取る形で鎌倉公方に返り咲いたが、父に関する経緯もあり、憲実の子で、憲実と同じく関東管領に就任した上杉憲忠とは折り合いが悪く、やがて享徳3年12月(1455.1)に憲忠を謀殺してしまう。

 これをきっかけに、足利公方家と上杉一族が関東の諸豪族を巻き込んで全面対決し、30年弱に渡る享徳の乱が引き起こされた。そして、幕府の命によって出兵した駿河守護今川憲忠により、成氏が遠征している隙に鎌倉が陥落してしまったことから、成氏は鎌倉帰還を諦め、この古河を本拠としたのである。一説には、古河周辺に足利氏の領有する土地が多い上、北関東には成氏を支援する豪族も多いため、積極的に古河へ本拠を移したともいう。

 成氏は最初、ほど近い古河公方館に居を構えたが、2年後に古河城を修復して入城し、以来5代120年の間、古河公方の本拠地となった。

 古河公方足利家は、鎌倉から古河へ移って以降も、関東諸豪の尊崇を集めたが、やがて内紛が相次ぎ、次第に勢力を衰えさせて行く。この間、文明3年(1471)に、山内上杉家の家宰長尾景信の侵攻によって城が放棄されたことが見え、翌年に奪回している。

 このような旧鎌倉府内部の権力争いと、足利公方家内部の抗争が続く中、その間隙を縫って勢力を伸張してきた新興の北条氏に対し、当主の晴氏は、旧権威同士である上杉氏と共同戦線を張ったが、天文15年(1546)の川越夜戦で決定的な敗北を喫してしまう。そして、同21年(1552)頃に北条氏康の甥義氏に家督を譲らざるを得なくなり、北条氏に服属した。その直後の天文23年(1554)には、晴氏・藤氏父子が古河城に籠城しているが、これにも敗れ、永禄元年(1558)には、足利氏を支えてきた簗田晴助の居城となっている。

 この後、同4年(1561)に長尾景虎(上杉謙信)が小田原城へ進軍した際、晴助は古河城に景虎を迎えているが、翌年には北条勢に奪回され、同12年(1569)には北条氏の支援によって義氏が入城し、再び古河公方家の城となった。しかし、義氏はが天正11年(1583)に嗣子無く没したため、城は北条氏の手に移り、軍事臭の強い大規模な城へと改修されている。

 だが、天正18年(1590)の小田原の役の際には、芳賀正綱が城番であったが、秀吉軍の前にあえなく開城し、その堅固さを嫌った秀吉に破却された。

 その後、関東に入った家康によって交通の要衝として再興され、小笠原秀政が入部し、江戸時代は慶長7年(1602)に入部した戸田松平康長を皮切りに、小笠原氏、奥平忠昌、永井氏、土井氏、堀田氏、藤井松平氏、大河内松平氏、本多氏、松井松平康福、土井氏と、関東の要衝だけに親藩や譜代が目まぐるしく入れ替わっている。

 この間、改修が繰り返され、関東では江戸城に次ぐ規模を誇っていたとされるが、維新後の明治6年(1873)の廃城令で廃城となり、翌年に解体され、民間に払い下げられた。

 現在の城跡は、大正時代の渡良瀬川の改修によってその大部分が河原となり、遺構はほとんど残っていない。従って、規模などは想像するしかないのだが、土塁や四重に囲っていたという堀の一部などは確認できるという。

 

最終訪問日:2001/9/29

 

 

訪れた時は、遺構が無いということを知って散策を諦め、周囲の雰囲気を味わうためにバイクで軽く見て回るだけでした。

当時は出先でネットを見るのがまだ難しい時代でしたしね。

帰ってから確認すると、堀の一部などは残っているとのこと。

なので、またいずれ徒歩でしっかりと散策したい城です。