Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

古河公方館

 古河公方足利成氏が、鎌倉より古河へ本拠を移した際の館で、隣接する古河城に移るまでの2年間、滞在した。

 古河公方足利氏は、もともとは足利尊氏の子で関東東北を総括した鎌倉公方足利基氏の流れであり、鎌倉公方の5代成氏から鎌倉から古河へ移って以降、古河公方と呼ばれるようになる。

 その成氏の父鎌倉公方4代持氏は、幕府に対して独立の野心を抱き、管領であった憲実と対立して討とうとしたのがきっかけで、永享10年(1438)に永享の乱を引き起こした。やがて、幕府は憲実を支援して大軍を派遣し、持氏は翌同11年(1439)に長男と共に自刃に追い込まれ、後に結城氏に擁立された持氏の遺児安王丸と春王丸も、嘉吉元年(1441)の結城合戦に敗れて殺されてしまう。

 この時、四男永寿王丸(万寿王丸)は難を逃れ、後に幕府は関東諸豪族の要望に応える形でこれを赦し、永寿王丸を成氏として文安4年(1447)、あるいは宝徳元年(1449)に鎌倉公方に任命した。だが、鎌倉公方の補佐役である関東管領に就いたのは、憲実の子憲忠で、共同して鎌倉府の運営に当たるべき関係ながら、早々に両者は対立するようになる。

 この頃の憲忠は、まだ若年であり、政治的な影響力はそれほど無かったが、成氏にとってみれば、父を死に追いやった上杉氏と間にしこりがあるのは当然で、その対立の実体としては、鎌倉公方不在の間に諸々を差配していた、山内上杉家の家宰長尾景仲や扇谷上杉家の家宰太田資清との権力争いであった。

 その対立が表出したのが宝徳2年(1450)の江ノ島合戦で、この戦いでは長尾・太田連合軍が敗れ、兵を引き、一旦はそれまでの政治体制に回帰している。しかし、享徳3年(1455.1)には、成氏が憲忠を謀殺した事をきっかけとして、関東諸豪族が公方側と管領側に分かれた享徳の乱が勃発した。

 この30年弱に渡る争いの緒戦は、公方側有利で進んでいたのだが、やがて幕府が駿河守護今川範氏に命じて鎌倉を攻撃させ、遠征中であった成氏は軍を返せず、翌年6月に鎌倉を落とされてしまう。そして、鎌倉帰還を諦めた成氏は、鎌倉陥落と同じ6月に古河の鴻巣へ移って本拠としたのが、この公方館である。一説には、古河周辺に足利氏の領有する土地が多い上、北関東には成氏を支援する豪族も多いため、積極的に古河へ本拠を移したともいう。

 ただ、成氏がこの公方館に在ったのは僅か2年で、長禄元年(1457)にすぐ近くの古河城に居を移した。古河城は、戦国末期から江戸期の拡張で公方館とほぼ隣接した形になったが、この当時は多少離れていたはずである。

 その後、天文15年(1546)の河越夜戦で北条氏に敗れ、後に傀儡となった古河公方家は、北条氏の血を引く5代目の義氏で絶えてしまうのだが、義氏には氏姫という娘がおり、天正18年(1590)の小田原の役後に古河城を退去し、この館に居していた。

 秀吉は、足利公方家が絶えることを惜しみ、小弓公方足利義明の次男頼純に喜連川を与えていたが、その命によって氏姫は翌年に頼純の嫡男国朝と婚姻し、長い間、対立していた公方家は、統合されることになる。ただ、氏姫は自らが正統であるとの思いから、喜連川には移らず、この館に住み続けたという。

 氏姫は、文禄2年(1593)の国朝没後にその弟頼氏に再嫁し、嫡男義親が生まれているが、義親はその生涯をこの館で過ごし、その子尊信も、頼氏の跡を継いで喜連川に移るまで、この館で過ごしている。尊信の継いだ喜連川家は、徳川政権でもその血脈から厚遇され、明治維新後に足利の名字に戻して今に続いているという。

 現在の公方館の場所には、跡地として碑が建っているのみだが、周辺には空堀や土塁が風化しかけながら僅かに痕跡を留めている。周辺は古河総合公園の一角で、整備の手がある程度入っているため、これらの僅かに残っている遺構から当時の規模や様子を知ることは困難だが、深い林が古城の趣を醸し出していたのは印象的だった。

 

最終訪問日:2001/9/29

 

 

館があった時代とは、かなり地形は変わっているとは思うんですが、深い森が作る雰囲気が古城っぽくて良かったです。

残念ながら河川敷となっている古河城とは、対照的ですね。