三好氏の菩提寺であった見性寺にある三好一族の墓。
三好氏は、鎌倉時代に阿波の守護を務めていた小笠原氏の庶流で、承久3年(1221)の承久の乱の恩賞により、小笠原長清が阿波守護職を得たことが、小笠原氏が阿波と関わりを持つきっかけとなった。
守護職は、2年後には長清から嫡子長経に引き継がれ、長経は弟とも嫡子ともいう長房に譲ったといい、この長房の系統から分かれ、阿波国三好郡を本拠とした一族が三好氏と考えられている。ただ、鎌倉時代や南北朝時代の三好氏の動向は、あまりよく判っていない。
南北朝時代の初期には、小笠原一門は四国を勢力圏として確立しようとする細川氏と激しく争ったが、やがて阿波は細川氏の重要な領国となった。この頃に三好氏も細川氏に臣従したと思われ、その後は細川家中で地位を高めて行く。
応仁元年(1467)からの応仁の乱では、三好氏の当主之長は、主家である阿波細川家の成之と共に上洛し、土一揆を扇動するなどして名を馳せ、後に阿波細川家から澄元が京兆細川家へ養子として入ったことから、京兆細川家の家臣としても活動するようになる。このようにして、阿波で最大の勢力を持つ国人という枠を超え、中央でも三好氏の活躍が見られるようになった。
続く京兆家の家督争いである両細川の乱でも、引き続き之長は活躍したのだが、後に澄元と敵対する細川高国に敗れ、処刑されてしまう。そして、之長の子とも孫ともいわれる元長も、澄元の子晴元と協力して高国を破り、晴元政権の樹立に尽力したものの、その晴元と対立してしまい、晴元の要請による一向一揆に討たれてしまっている。
元長の子長慶は、父の仇でもある晴元の家臣として若年の頃から活動し、後には晴元を排除して室町幕府の相伴衆となり、実質的に天下の実権を握る天下人となった。また、阿波国内でも、長慶の弟実休(之虎・義賢)が阿波細川家を下克上して傀儡化し、阿波細川家の居館であった勝瑞館を本拠としている。
しかし、長慶が確立した三好政権は、永禄7年(1564)の長慶の死によって重臣同士の対立が表面化し、永禄11年(1568)の信長の上洛によって瓦解してしまう。以降の三好系勢力は、信長に味方する者と敵対する者に分かれつつ、次第に信長政権に吸収された。
阿波の三好家も、実休の嫡子長治、その敗死後は次男存保が継いでいたが、天正12年(1582)の本能寺の変によって信長の後ろ盾を失ったため、土佐から興った長宗我部元親の侵攻に敗れてしまい、後に信長の後継者となった秀吉による天正13年(1585)の四国征伐の結果、讃岐で3万石のみが復されている。しかし、翌天正14年(1586)の九州征伐の前哨戦である戸次川の戦いで、存保が討死してしまったため、大名としての三好氏は滅んだ。
三好一族の墓がある見性寺は、実休が奪った勝瑞館に隣接して築かれた勝瑞城の跡にあり、その一角に之長、元長、実休、長治という4代の墓が並んで建てられている。これは、江戸時代に、各地にあった墓を見性寺に遷してきたものという。
勝瑞城は、存保が約20日間に渡る籠城戦を戦った末、開城して讃岐へ撤退したため、阿波における三好氏の最後の拠点となった城である。城としては、僅かに本丸と水堀を残すのみではあるが、静かに並ぶ4つの墓を眺めつつ、ひと時の間、阿波で興った三好氏の栄華と衰亡を偲ぶには、相応しい場所なのかもしれない。
最終訪問日:2016/10/15
三好氏の菩提寺だけあって、4つのお墓の周囲には御囲いもあり、綺麗に掃き清められていました。
当時の三好氏の勢いを思えば、やや質素な墓所ではありますが、これも今は昔ということなんでしょう。