Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

碓氷関跡

当時の部材で復元された碓氷関所の東門

 信濃国から関東の上野国に入る場所に設置された関所。江戸時代には、東海道の箱根の関所と共に、主要街道の江戸に近い関所として、最重要の場所となった。

 碓氷峠への道に関所が設置されたのは古く、平安時代法令集である「類聚三代格」によれば、昌泰3年(900)の太政官符に、前年9月に足柄坂と碓氷坂に関を置き、以降は部内が清静になったと記されている。当時は馬を奪う徒党がいたようで、朝廷は関を設けて取り締まると共に徒党追討を命じたという。その後、「貞信公記」によれば、平将門の乱が収まった後の天慶3年(940)4月6日に、碓氷関使が停止されている。

 以後、関は設置と廃止が何度かあったようで、鎌倉時代の正応2年(1289)にも執権北条氏によって、古代より関が置かれていた関長原に関が設置されたといい、争乱が断続的に続く室町時代には、国境警備の必要性が高まり、周辺に関所や番所、砦などが造られ、同様の機能を果たし続けていたのだろう。

 戦国時代末期に家康が関東へ入部し、支配体制が安定化すると、奉行衆であった伊奈忠次大久保長安により、文禄元年(1592)に横川へ関所が置かれた事が見え、慶長19年(1614)には大坂の陣に伴う警護強化で、井伊直勝が関長原に仮番所を置いている。

 その後、安中藩主となった直勝が元和2年(1616)に正式に関所番に任じられ、同9年(1623)には、狭所でより取り締まりがしやすい現在地の横川へと移り、代々の安中藩主が関所番を務めた。ただ、関所の東門を安中藩が、西門を幕府が守ったように、幕府と協力して関所が運用されていたようだ。また、宝永5年(1708年)7月には、碓氷関所が正式名称となっている。

 江戸幕府の崩壊後、関所はその目的を失ったため、明治2年(1869)に廃止され、建物も撤去されたが、昭和に入り、関所跡が県指定文化財になったことをきっかけに、昭和34年(1959)に当時の部材を使って東門が復元された。

 関所としては、その復元された東門があるだけだが、当時の中山道の雰囲気が残る街並みや、山と川が迫る地形、碓氷峠の深い山々などを眺めると、ありありと重要な警戒地点であることが解るだろう。当時の旅人は、どのような思いでこの関所を通過して行ったのか、想像するのも一興である。

 

最終訪問日:2019/5/12

 

 

訪れた日が、たまたま江戸時代の安政遠足をモチーフにしたマラソン大会と碓氷関所まつりの日で、関所跡は人だらけでした。

ただ、まつりには色々と出し物があるらしいのですが、訪れた時間は、残念ながら出し物の時間からは外れていましたね。

でも、祭りの賑わいを感じられたので、楽しかったです。