Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

史跡

大仙陵古墳 (仁徳天皇陵古墳)

大仙陵古墳の遠景 第16代天皇の仁徳天皇の陵墓に比定されている古墳で、日本最大の前方後円墳として有名。 5世紀前半から中頃の築造とされ、宮内庁では百舌鳥耳原中陵、考古学的には大仙陵古墳というのが正式名称である。かつては、仁徳天皇陵や仁徳天皇陵古…

今城塚古墳

今城塚古墳の前方部と造出し部分 第26代天皇の継体天皇の陵墓に推定されている古墳。ただし、宮内庁の陵墓参考地には指定されておらず、発掘可能な大王墓として貴重な存在である。 今城塚古墳は、古墳時代後期の6世紀前半に築造された、二重の環濠を持つ前方…

山中鹿介幸盛墓

河畔に建立された山中鹿助幸盛の墓 山陰の麒麟児という異名をとった尼子家の忠臣、山中鹿介幸盛の墓。毛利氏に捕らわれていた幸盛は、高梁川と成羽川の合流点にほど近いこの場所で謀殺された。ちなみに、講談などでは、鹿之助の字があてられている。 尼子氏…

水攻築堤跡

蛙ヶ鼻築堤の全景 羽柴秀吉が、織田家の中国方面軍司令官として毛利軍と対峙し、備中高松城を水攻めした際に築いた堤跡。 天正10年(1582)、秀吉率いる織田軍は、中国地方攻略の緒戦として、境目七城と呼ばれる領境の城を次々と落とし、4月15日にはその要とな…

吹屋銅山 (吉岡銅山)

吹屋銅山笹畝坑道入口 吹屋鉱山や吉岡銅山ともいい、パンフレットには吉岡銅山の方が正式な名称であるように書かれてあったが、現地の案内板などは吹屋銅山となっていた。 最初の発見は大同2年(807)とあるが、この初期の頃は、地表に露出した鉱脈から採掘す…

中山茶臼山古墳

中山茶臼山古墳前景 中山茶臼山古墳は、他の同名の茶臼山古墳と区別する為、吉備中山にあることから中山を冠して呼ばれる。また、現地案内板では、中山御陵という名で記されていた。 古墳は、第7代考霊天皇の皇子で、桃太郎のモデルといわれる大吉備津彦命を…

鬼ノ城跡

展望台から復元されている西門と城壁を眺める 西日本の要害の地に多く築かれた古代山城のひとつ。 大和朝廷と友好関係を持っていた朝鮮半島の百済は、斉明天皇6年(660)に唐・新羅連合軍に敗れて滅亡した。しかし、遺臣の鬼室福信が再興の兵を挙げるに及び、…

鶉野飛行場跡

真っすぐ伸びる鶉野飛行場滑走路 太平洋戦争開戦後に造成された、パイロット養成の為の飛行場跡で、正式名称は姫路海軍航空隊基地という。 鶉野飛行場建設は、当初の計画では、戦闘機を生産していた川西航空機の、組立工場建設による資材搬入用と試験飛行用…

平井山本陣跡

平井山本陣跡の主郭部 天正6年(1578)から同8年(1580)にかけて行われた三木合戦の際、秀吉は包囲網形成のために周辺に無数の付城を築かせ、自らは三木城の見える平井山に本陣を張ったが、平井山には今でもその陣所の跡が残っている。名前を平井山本陣跡とした…

姫路モノレール跡

取り壊された大将軍駅跡の高尾マンション 手柄山で開催された姫路大博覧会に合わせ、会場への交通手段として昭和41年(1966)5月17日に開通し、同49年(1974)4月11日に休止した姫路モノレールの跡。所々にモノレールの橋脚が残っており、旧手柄山の駅には車両が…

竹中半兵衛重治墓

今も献花が絶えない竹中半兵衛重治の墓 秀吉が三顧の礼で軍師として迎え、黒田官兵衛孝高とともに秀吉幕下の二兵衛と称され、三木合戦の陣中で病没した竹中半兵衛重治の墓。秀吉が三木合戦で本陣を張った平井山の麓にある。現地の案内板には、諱の重治ではな…

正法寺古墳群

正法寺古墳群案内板 加古川と美嚢川の合流点近くの丘陵にある古墳群で、丘陵の圃場整備に先駆けて平成6年(1994)6月から翌年2月まで発掘調査が実施された。この時に発掘されたのは正法寺山の西側中腹の段丘だったが、古墳が存在するのは山頂から段丘にかけて…

黒田職隆墓

妻鹿城の城下町にある黒田職隆の廟所 秀吉の軍師として活躍した、黒田官兵衛孝高の父職隆の墓。 黒田家は、播磨国黒田庄の土豪という異説もあるが、近江源氏佐々木氏の庶流とするのが一般的で、職隆の祖父高政が戦国時代初頭に流浪して備前福岡へ行き、同じ…

黒田重隆墓

室の明石氏と並んで祀られている黒田重隆の廟所 黒田官兵衛孝高の祖父重隆の墓。 黒田家は、播磨国黒田庄の土豪という異説もあるが、近江源氏佐々木氏の庶流とするのが一般的である。つまり、佐々木京極氏の分かれである近江国伊香郡の黒田氏の流れで、重隆…

桂小五郎居住跡

たくさんの碑が残る居住跡 黒船来航によって、国内で議論が百出した江戸時代の幕末では、知識階級を中心に尊皇攘夷思想が高まって行った。その先導的な役割を担ったのは、思想的には水戸藩であり、実際的には長州藩である。しかし、京都での長州藩の振る舞い…

大石良雄の石垣跡

大石良雄の石垣跡全景 江戸時代当時、この周辺は大和村と呼ばれ、赤穂藩の飛び地であった。その赤穂藩の家老大石内蔵助良雄が工事を視察した、灌漑の為の石垣である。 赤穂藩は、忠臣蔵にも出てくるように、塩田の経営を成功させており、潤沢な収入があった…

王塚古墳 (桧笠岡王塚古墳)

環濠が整備された王塚古墳 5世紀末から6世紀初頭の前方後円墳で、地元では単に王塚古墳と呼んでいるが、地図には桧笠岡王塚古墳とあり、吉田王塚古墳とも呼ぶ。 推古天皇11年(603)、撃新羅将軍であった来目皇子の後任として、聖徳太子の異母兄弟である当麻皇…

井の端古墳群

井の端古墳群の7号墳の頂上面 公共宿泊施設である上郡ピュアランド山の里に隣接する古墳群。丘陵一帯には13基の古墳があり、その内の5基について調査されている。 この古墳群は、平成5年(1993)に上郡ピュアランド山の里の建設に伴って発掘調査が行われ、当…

生野銀山

生野銀山金香瀬坑道入口 石見銀山とも呼ばれる島根の大森銀山と並んで、中世から近世にかけての代表的な銀山。銀だけではなく、銅や錫も産出していた。 開坑は、伝承では平安時代の大同2年(807)とされているが、この頃は地表に偶然現れた鉱脈を採掘する露天…