Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

竹中半兵衛重治墓

今も献花が絶えない竹中半兵衛重治の墓

 秀吉が三顧の礼で軍師として迎え、黒田官兵衛孝高とともに秀吉幕下の二兵衛と称され、三木合戦の陣中で病没した竹中半兵衛重治の墓。秀吉が三木合戦で本陣を張った平井山の麓にある。現地の案内板には、諱の重治ではなく、世間的に有名な通称である竹中半兵衛の墓とあった。

 竹中半兵衛は、天文13年(1544)に父重元の次男として生まれ、父の死後菩提山城主となり、斎藤龍興に仕えたが、若年の頃より軍略に秀で、斎藤家中はもとより、隣国の織田家にも名前が知れていたという。

 有名なのは稲葉山城の乗っ取りで、弟の病気見舞いと称して16人とも17人ともいわれる人数で主君龍興を城から追ったが、信長の調略を断り、龍興に城を返して隠棲した。この乗っ取りの理由には様々な説があり、龍興に冷遇された為とも、政務をおろそかにする龍興を諌める為とも、美濃三人衆のひとりで舅でもあった安藤守就が失脚した為ともされるが、明確にはなっていない。

 この後、城に帰って隠棲し、斎藤家滅亡後は、一時は近江の浅井氏の下で客分として過ごしていたようだが、秀吉の再三の説得により、織田家に従うこととなる。ただ、信長の苛烈さを知っていた半兵衛は、織田家の直臣ではなく、人たらしとまでいわれた秀吉に属すことを条件とした。以降、秀吉の軍師として、秀吉の政戦略に重要な影響を及ぼして行く。

 この半兵衛の墓がある、三木を本拠としていた別所氏攻略の作戦を立案したのも半兵衛とされ、以後の小田原征伐に集約される秀吉の攻城戦のスタイルに強い影響を与えているが、半兵衛自身は、三木の陣中で肺結核か肺炎と思われる病を患い、一旦は京で養生するも、見込みが無いと判断して再び三木に戻り、その作戦完了を見届けることなく天正7年(1579)6月13日に36歳で死去した。その死に際して、半兵衛は秀吉が天下人になると予言し、秀吉は亡骸にすがって人目も憚らず号泣したという。

 半兵衛と秀吉は、よく諸葛孔明劉備の主従にたとえられるが、半兵衛が秀吉から再三に渡って説得を受けたことや、その書生然としたイメージ、清廉な人柄などが諸葛孔明のイメージと重なることが大きな理由だと考えられるが、後世の軍記物によって誇張された部分も大きい。そのイメージや逸話を取り除いた実際の半兵衛の事跡については、その重要な史料である豊鏡という書物が、半兵衛の子重門によって書かれたものであり、父の顕彰という要素を差し引かなければならず、実際には不明な点が多いという。

 この為、実際の半兵衛は、大した事跡を残していないという説や、織田家の直臣で秀吉の指揮下にあっただけの寄騎、つまり主従関係ではなく対等な立場だったという、両者の根本的な関係を疑う説まである。この辺りの評価が定まるには、新しい史料が発掘されるのを待たなければならないが、少なくとも後に天下人となった秀吉から絶大な信頼を得ていたのは間違いなく、また、半兵衛に何らかの魅力や能力があったればこそ、戦国を代表する軍師という肩書きが与えられたのではないだろうか。

 

最終訪問日:2016/9/25

 

 

三木城攻略の本陣があった平井山には、今はぶどう農園が広がっていますが、平地からほんの少し登った平井山の麓の一角に、白壁の塀で囲われた、明らかに周囲とは異質の雰囲気を持つ場所があります。

これが半兵衛の墓所

様々な戦略は、そのまま経営の戦略に応用できることから、経済人に崇拝されているらしいのですが、地元でも毎年法要が行われているそうで、花もきちんと供えられており、半兵衛の人気がいまだに根強いことを、墓所を見て実感しました。