Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

生野銀山

生野銀山金香瀬坑道入口

 石見銀山とも呼ばれる島根の大森銀山と並んで、中世から近世にかけての代表的な銀山。銀だけではなく、銅や錫も産出していた。

 開坑は、伝承では平安時代の大同2年(807)とされているが、この頃は地表に偶然現れた鉱脈を採掘する露天掘りが細々と行われていたに過ぎなかったようで、史料上で本格的な採掘が確認されているのは、戦国時代の但馬の守護山名祐豊が採掘を始めた天文11年(1542)からである。

 播磨を支配した赤松氏と但馬を支配した山名氏は、室町時代中期以降、国境であるこの生野周辺でよく争っていたが、銀の産出に目を付けた祐豊が本格的に生野へ進出し、銀山周辺を支配した。だが、下剋上の風潮の中、銀山の支配権は、やがて山名家臣で竹田城主の太田垣氏へと移り、後には但馬に進出した織田信長や、その基盤を引き継いだ豊臣秀吉江戸幕府を開いた徳川家康が直接支配するようになる。このように、生野銀山を始めとした鉱山は、支配者階級にとって有力な経済的基盤であり、非常に重要視されていた。

 生野銀山の最盛期は、江戸時代の17世紀頃で、石見銀山の最盛期もほぼ同じ時期であることから、銀決済であった上方の繁栄に、これら銀山の産出量増加がある程度寄与したと考えられる。また、佐渡の金山も江戸時代初期が最盛期で、これら金銀鉱山の開発による鉱物の産出量の増加が、貿易と共に無尽蔵とも思える秀吉の重要な財源となり、そして豊臣政権と比べて貿易の収入が少なかった江戸幕府においては、安定的に政権を運営する上でかなり役立ったことは間違いない。

 その後、最盛期に比べるとやや産出量を減らしたものの、銀山は江戸期を通じて銀やその他の鉱物を生み続け、明治維新後は政府の官営となった。そして、西洋式の手法を導入して近代化され、皇室御料を経て明治29年(1896)に三菱合資会社に払い下げられた後、昭和48年(1973)に閉坑し、現在は鉱山公園として坑道などが公開されている。

 坑道は、年間を通じて温度が一定で、訪れたのは夏でも13.5℃しかなく、何かを羽織らなければ寒いぐらいだった。坑道内部は、近世から閉山するまでの採掘の様子が展示され、特に江戸時代などの近世の様子は電動の人形で再現されていて、面白い。昭和末期に訪れた際は、この電動の人形がやけに印象に残ったぐらいだったが、今は光ファイバーによる電飾や映像による説明もあり、なんだか展示も今風になったなという感じだ。

 坑道以外にも、坑道入口の脇を登った先に露天掘りの跡があり、鉱山資料館や吹屋資料館といった無料の資料館も用意され、エリア全体として非常に興味深く見学することができる。また、入口近くには、鉱物学者和田維四郎博士が収集した和田コレクションを収める、三菱ミネラルコレクションを展示する生野鉱物館があり、これは鉱物博物館としては国内最大という。

 

最終訪問日:2021/8/16

 

 

何度も行っていますが、生野銀山に行くのは夏に限ります。

なんと言っても強冷の天然クーラー最強!

寒いぐらいが気持ちいいんです!