Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

湊川神社

 建武3年(1336)の湊川の戦いに敗れて自刃した、楠木正成を祀る神社。配祀として、正成の子正行や、弟正季以下正成と共に自刃した16柱も祀られている。

 もともとこの地には、楠木正成の塚があったが、そのことを知った水戸光圀墓所を建て、尊皇攘夷思想が渦巻いた幕末には、有名無名の志士たちが多く訪れたという。明治維新後は、次第に国家神道が確立されて行くのだが、その基本は、上記のような水戸光圀大日本史に見られる朱子学的な歴史観だった。朱子学で言うと、南北朝時代北朝は夷で、南朝が正当な華となり、このことから、南朝に味方して湊川の合戦で玉砕した楠木正成の名が、幕末以降著しく揚がったのである。

 このように、これら水戸史観や幕末の勤皇思想を思想的母体としてそのまま引き継いだ明治政府は、神社創立の建白や明治天皇の命もあり、この墓所と殉節地を含む領域を境内として定め、正成の命日の前日である明治5年(1872)5月24日に官幣神社を創建した。それが、この湊川神社である。

 第2次大戦以前は、教科書などで正成が忠臣の鏡のように描かれていたこともあって、非常に崇拝を集めていたが、戦後は正成の評価がタブー視されたような感じで棚上げされ、神社もそれに合わせるように国家的な崇拝を集める神社ではなくなった。だが、今も神社本庁の定める、いわゆる別表神社のひとつで社格は高く、正成を信仰する人の参拝も多い。

 現在は、明治34年から工事が始まった付け替え工事により、湊川の流路が大きく西へ迂回している為、湊川と何ら関係の無い場所に在るように感じてしまうが、創建当初は、現在の湊川公園や新開地を通って川崎重工へと流れていた湊川からそれほど距離は無く、湊川の激戦を偲ぶことができる場所だったのだろう。神社の北には、正成が築城した阪本城の推定地である大倉山があるほか、湊川公園を挟んだ反対側には、正成が最初に陣を置いた会下山があり、全体を想像することは難しいものの、合戦の跡を辿ることができる。

 神社周辺は市街地となってしまっている為、かなり多くの車が行き交う幹線道路の北側が境内となっているが、明治の頃から受け継いだ社域は未だ広く、喧噪の中にありながら境内は静かな雰囲気が漂っていて、気持ちが落ち着く。また、街中であるが故に屈指のアクセスの良さを誇り、阪神と阪急は至近の高速神戸駅が、JRと地下鉄海岸線、地下鉄が同距離ぐらいで神戸駅ハーバーランド駅、大倉山駅が最寄りとなり、5路線から行くことができる。

 

最終訪問日:2002/8/26

 

 

地元では親しみを込めて、楠公さんと呼ばれる神社です。

境内にある能舞台では能や狂言も上演されており、神戸の人なら1度ぐらいはこの神社で観劇したことがあるという人が多いですね。