Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

伊弉諾神宮

伊弉諾神宮の拝殿

 神社本庁の定める、いわゆる別表神社のひとつで、淡路国一宮。また、延喜式神名帳に記された式内社であり、名神大社に列している。

 神社の名前が示す通り、本来の祭神は伊弉諾尊(イザナギノミコト)のみであったようだが、いつの頃からか伊弉冉尊(イザナミノミコト)も祀られるようになった。明治維新後の国家神道への流れの中で、伊弉諾尊のみが祭神と認定された時代もあったが、昭和7年(1932)より正式に2柱を祭神とすることが認められ、今に至っている。

 国産み、神産みを終えた伊弉諾尊が、子神で且つ皇室の祖神となる天照大御神(アマテラスオオミカミ)に高天原を、月読(ツクヨミ)に夜を、建素戔嗚(スサノオ)に海原を治めさせ、自らは、国産みで最初に作った淡路の多賀に幽宮(カクリノミヤ)を構えて鎮まったと記紀で語られているが、その鎮まった場所がこの神宮の場所だったという。その後、伊弉諾尊はこの幽宮で終焉を迎え、その地が神陵の地となり、後に社殿を構えて祀ったのが神宮としての創始である。ただし、昭和29年(1954)の神宮号宣下までは、伊弉諾神社を称していた。

 中世の神宮は、神職を務める為に来島した田村氏によって掌握されていたようで、田村氏は神職を務めると共に郡家城を築いて武家化し、やがて信長の命に従わなかった為に滅んだという。その後は、石上氏が神職世襲し、淡路と阿波を領した徳島藩主蜂須賀氏などの尊崇を受けた。

 明治時代には、国費による社殿の造営が行われ、この時に神陵の前面にあった本殿が神陵の上に移り、神陵を囲っていた水堀などは現在の方生の神池などになったという。また、阪神淡路大震災では鳥居などが倒壊し、新しく建て直されている。

 訪れてみると、神宮に面する十字路が北西から南東にかけての道にある為、十字の交差点にある鳥居から南面して建つ拝殿まで真っ直ぐ参道が通っており、なんだか新鮮だった。大抵の神社は拝殿と境内外側の道路が平行となる為、三叉路から真っ直ぐ参道が続くということはよくあるのだが、十字路から真っ直ぐ参道が通るというのは少ないからだろう。

 境内は、杜が深くない為、由緒ある神社特有の薄暗い荘厳さというのは少ないが、明るいながら清浄な雰囲気があった。これは、明治時代の造営によって定まった景観で、これはこれで良いのだが、画一的な国家神道の趣向がやや感じられ、個人的には、それより前にあった、神陵を背景に鎮座する厳かな社殿というのも、見てみたかった気がする。

 

最終訪問日:2016/12/11

 

 

他の有名どころの大社に比べればマイナーな感は拭えませんが、有史以前から在った、という事は凄い事ですね。

ちょっと想像がつかないほどです。

境内にある太陽運行図には、伊弉諾神宮と各地の大きな神社との太陽の関係が記されていました。

本当なのか偶然なのか、太古の昔にこんな精密な立地で造られたというのは、歴史ミステリーですね。

驚きです。