Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

春日大社

 延喜式に記載された式内社の内、名神大社とある22社のひとつであり、全国の春日神社の総本社である。

 創建は、神護景雲2年(768)11月8日で、時の左大臣藤原永手によって社殿が造営されたとあるが、和銅3年(710)の平城京遷都後、藤原不比等が遠く鹿島神宮から武甕槌命三笠山の山頂浮雲峰に遷して祀ったと伝えられることから、神社創建以前にも祭祀が行われていたようだ。もともと神道は社殿を持たず、神が宿る場所を禁足地としてただ祀るという形態であった為、遷座した当時は社殿などを持たなかったのかもしれない。

 ちなみに、不比等がわざわざ中央から遠い常陸より武甕槌命を招いていることから、藤原氏の元となる中臣氏の出自は、鹿島神宮を祭祀していた常陸出身の豪族とする説もあるようだ。

 春日大社の祭神は、前述の武甕槌命のほか、創建の際に下総の香取神宮から経津主命、河内の枚岡神社から天児屋根命比売神を遷して祀っており、4柱を合わせて春日皇大神とも呼ぶ。また、4柱に合わせて本殿も4棟あるという。

 春日大社には、伊勢神宮式年遷宮諏訪大社御柱祭と同様に、式年造替という式年祭があり、かつては本殿などを新たに建てていた。近代になり、本殿が国宝に指定されたことによって建て替えが出来なくなったため、今の式年造替は、傷んだ部分の修繕をするのみになっている。

春日大社南門

 このような全国各地の神社で見られる建て替え等の式年祭は、月日の流れの中での新たな生まれ変わりを重視する文化、つまり、本質は今までと変わらないながら元日の朝日や季節の初物を縁起の良いものとする文化と同一のものなのだろう。当然、技術の伝承など現実的な利点もあるが、前述のように原始神道が建物を持たなかったことを考えると、新たに生まれ変わることによって若々しい力を神が得ることを期待し、引いてはその恩恵に預かるというのが本質的なところではないだろうか。

 一般に、興福寺春日大社は、神社と神宮寺の関係とされるが、元々は藤原氏氏神、氏寺として別々に運営されていた。しかし、仏教の隆盛に伴う神道の衰退により、神は仏が仮(権)に現れた姿とする権現の考えが広がると、藤原冬嗣による弘仁4年(813)の興福寺南円堂建立の際、その本尊不空羂索観音武甕槌命本地仏であるとされたため、両者の一体化が進んだ。平安時代から中世にかけては、両者は完全に同一のものとなり、興福寺の衆徒が春日大社の神鏡を付けた神木を奉じて上洛し要求を通すという神木動座も行われたが、京都の朝廷が完全に力を失った室町時代には、もはや氏子である藤原氏に政治的な力は無く、神木動座も効力を失った。

 中世の大和国は、一国が興福寺の寺領とされ、武家政権も守護を置けなかったが、信長が畿内を掌握すると力を失い、江戸時代には2万1千石が寺領として認められるのみとなる。そして、明治期の神仏分離で、両者は再び分けられることになるのだが、この政策により、興福寺廃仏毀釈の煽りを受けて廃寺寸前にまで追い込まれる一方で、明治政府が神道を保護していたため、春日大社はそれほどの打撃を受けなかったようだ。

御手洗川と1000基もあるという釣灯篭

 春日大社の境内は、朱の回廊が四方を囲むという大社らしい重厚な構造をしているが、左右対称ではなく、南門が南回廊中央にあることを除けば、境内北東側に本殿があるほか、東回廊よりも西回廊の方が長いなど、建物配置的に秩序立った感じは無い。一般参拝客が参拝できる南門と幣殿辺りの左右対称のイメージからは、意外な気もする。特別参拝の初穂料を払えば、本殿にお参りすることが可能であり、奥まで入って見渡すことができれば、南門付近から見るイメージとはまた違う姿なのだろう。

 大社と付いている割には、他の大社に比べて規模が小さく感じるが、これは神仏習合興福寺と一体化していたことが影響している。興福寺は、前述の通り、維新後に著しく衰退したのだが、その時に境内を示す塀も撤去され、境内地は奈良公園として開放されてしまった。その結果、一体化していた春日大社の境内も開放されてしまったのである。境内の名残は、奈良公園内の一之鳥居や鬱蒼とした木々に残されており、今は公園になっているとは言え、他の神社と同様に静寂と厳かな雰囲気を持つ杜のイメージが強い。ちなみに、奈良公園で見掛ける鹿の多さは、武甕槌命が白鹿に乗って三笠山に来たとの伝承から、長年に渡って鹿が神の遣いとして大事にされてきた証である。

 訪れた日は平日だったが、世界遺産に登録されていることもあってか、外国人観光客が多く、その他にも遠方からの修学旅行生や遠足で来たと思われる地元の小学生など、多種多様な観光客が参拝していた。これが休日なら、もっと混雑しているのだろう。その様子からは、古都奈良の象徴的な神社である事を、改めて感じることができる。

 

最終訪問日:2010/10/12

 

 

訪れた時は、残念ながら幣殿までの参拝でしたが、朱の建物や回廊、今まで様々な人から奉納された多くの灯篭など、他の神社ではあまり見られない鮮やかな色彩が溢れていて、とても印象的でした。

また訪れる機会があれば、その時は本殿の参拝をしてみたいですね。