
後に木戸孝允と名乗った維新三傑のひとり、桂小五郎の旧宅。門前の碑には木戸孝允誕生地とある。
幕末史では、木戸孝允よりも桂小五郎のほうが著名なのだが、孝允の実家は藩医であった和田家で、天保4年(1833)6月26日に昌景の子として生まれ、7歳の時に近くに住む桂九郎兵衛孝古という人物の末期養子になったことから、桂姓を名乗った。
その桂家は、長州藩の藩主毛利氏の草創の重臣である桂氏の庶流であり、150石取りの堂々たる武士で、お家断絶を免れたことから、昌景は大変喜んだという。
その後、養母も翌年に没したことから、小五郎は実家に戻って成長した。やがて、藩校明倫館で学び、20歳の時の嘉永5年(1852)に江戸へ留学するのだが、その留学までの20年間のほとんどを過ごしたのが、この旧宅である。
山鹿流兵学の師である吉田松陰も、吉田家の養子となった人物だが、幼い頃は実家の杉家で過ごしており、当時は、幼少期に養子として他家に入りつつ、様々な事情で成人までは実家で過ごすというパターンが、比較的多かったようだ。
その後の小五郎は、神道無念流の斉藤弥九郎道場で塾頭を務め、黒船来航を機に志士としての活動を開始し、萩に帰ってからは藩の中枢を担った。
京での活動時には、池田屋事件や蛤御門の変で生命の危機に立たされながらも命脈を保ち、蛤御門の変後は京や但馬出石で潜伏生活を続け、長州藩で俗論党の反政府が高杉晋作らによって覆されると、藩政府へ復帰する。そして、坂本龍馬や中岡慎太郎など土佐藩系志士の仲介で薩摩との同盟を果たし、第二次長州征伐、戊辰戦争に勝利を収め、藩を主導して倒幕、新政府樹立へ邁進した。ちなみに、この頃から名乗りを木戸へと改めている。
明治政府樹立後も、その政治的見識が評価され、岩倉使節団のひとりとして欧米を視察し、帰国後は調和的で現実的な様々な政策を推し進めたが、その調和的な思考が、時に急進派と守旧派のような相対する勢力の板挟みになり、心身を害して新政府と距離を置くこともあったという。そして、明治10年(1877)5月26日、西南戦争の行方を案じつつ、この世を去った。享年45。
理想主義的な志士タイプが多い幕末の長州の中では、ほぼ唯一に近い現実的政治家タイプで、個人的には、「動けば雷鳴の如く発すれば風雨の如く」と評された高杉晋作や、蛤御門で壮絶な死を遂げた久坂玄端のような激しいイメージは薄いが、その分、状況を観察しつつ着実に実績を積み上げていった人物であったように感じる。その性向が、長州志士の政策主導者として迎えられ続けた理由だろうか。
維新の三傑と呼ばれるように、まさに薩摩の大久保、西郷と伍する政治家であったのだが、維新後すぐ病に倒れてしまい、明治政府草創期において影が薄くなってしまっているのが惜しまれる人物である。
最終訪問日:2001/10/28
松陰からは山鹿流兵学を学んだだけで、松下村塾の塾生ではなかったんですが、それぞれが尖りまくっていた塾生の兄貴分として、その行動を俯瞰して支えていた印象が強いですね。
松下村塾の主軸の面々からは、年齢が少し上というのもあるんでしょう。
平治のイメージだと、何となく、やんちゃな弟達を見守る困り顔のお兄さんが頭に浮かんできます。