伊勢の神霊を勧請した神宮で、戦国時代の永正17年(1520)の創建。伊勢神宮と同様に内宮と外宮があり、それぞれ祭神も同じく天照大御神と豊受大御神である。
山口は、周防と長門の2ヶ国に絶大な勢力を築いた大内氏の本拠地で、その賑わいと安定を慕い、貴族も京から下向して京文化を花開かせ、西の京とまでいわれた。
その頃の大内氏の当主義興は、培った勢力と財力を背景に、前将軍足利義尹(義稙)を擁して11年もの間、上洛して上方で活動していたのだが、その在京中の同11年(1514)に伊勢神宮へ詣でた際、荘厳さに圧倒されて勧請を決意したという。そして、永正15年(1518)10月に帰国した義興は、すぐさま神域の選定に取り掛かり、その年の内に造営が開始され、2年後に大神宮は完成し、当初は高嶺神明、後に高嶺太神宮と称した。
八幡宮や天満宮のように、各地に勧請された宮は多く見られるが、伊勢神宮自体が特別な宮ということもあり、宮としての勧請は当時例がなかったという。つまり、前例がない勧請を可能にしてしまえるほど、その頃の大内氏の勢力が大きかったということを物語っている。
また、社殿の神明造りという建築様式はもちろん、内宮と外宮、式年遷宮まで徹底的かつ忠実に形式を踏襲していることから、山口の文化的な水準や、それを支える工人達の技量も高かった証拠と言えるだろう。その徹底的な踏襲の名残が、現在も五十鈴川という川の名前に残されている。
時代が下った江戸時代には、民間でお伊勢参りが流行っていたのだが、西国の旅人の中には、伊勢まで行かず、西のお伊勢様と呼ばれたこの神宮に参ることでお伊勢参りとする人も多かったようで、勧請とは言え、伊勢神宮の形式を徹底的に踏襲した神宮は、オリジナルに劣らぬ権威があったのだろう。
その後、昭和3年(1928)に高嶺神社と改称し、同22年(1947)からは、現在の山口大神宮の名称となっている。
訪れた時は、時期が時期ということもあって七五三と見られる家族連れが多く、駐車場も一杯で、今でも山口の方に敬われてるようだ。聞いたところによれば、前年は式年遷宮が行われた年であったらしく、どことなく遷宮の余韻というものが残っているようにも感じた。
最終訪問日:2001/11/10
山口大神宮にお参りをし、そのまま高嶺城に登ったんですが、七五三で着飾った子供さんやスーツ姿の親御さんが多い中、がっつり登山靴で参拝するのはちょっと気が引けました笑
それはそれとして、家族連れの醸し出す穏やかな雰囲気と秋の少し締まった空気が、大神宮の深い杜と交わり、短いながら非常に印象的な時間が過ごせましたね。