城の立地が示すように、崖端城ともいう。利根川の削った崖を利用している典型的な崖城で、平山城と違い、城内の地形はほぼ平坦である。
現地の説明では、石倉城は1.5kmほど西の蒼海城主であった長尾忠房の子憲景が文明17年(1485)に築いたという。
しかし、忠房は総社長尾氏の祖で、時代的には南北朝時代の武将であり、その子では年代が合わない。また、憲景という武将は、総社長尾氏系統から白井長尾氏を継いだ人物で、生誕が永正8年(1511)と、これまた合わず、実際の築城者は不明である。年代が正しいとすれば、総社長尾氏の当主であった長尾忠景か、その嫡子で憲景の父ともされる顕忠だろうか。
ちなみに、「前橋風土記」には、石倉城の後身である厩橋城の築城者は長尾賢忠とあるが、この武将は、現在では一般に長野賢忠の誤記とされている。従って、もし上記説明碑の長尾氏築城の根拠がこの長尾賢忠から来ているとすれば、現在の解釈では厩橋長野氏が石倉城を築いたとするのが正しいということになるのだが、どうだろうか。
石倉城が築城された頃の周辺地形は、現在のように利根川が近くを流れておらず、東の広瀬川やその左岸付近を流れていた。そして、石倉城へは、その広瀬川が分流する辺りから久留馬川という小さな川を利用して堀に水を引き入れていたという。
しかし、16世紀前半の何度かの洪水で利根川が変流し、現在の川筋となったため、石倉城が破壊されてしまった。これにより、石倉城の三ノ丸を利用して新たに厩橋城が築かれ、石倉城に代わって長尾氏の本城となったのである。
現地の説明碑には、件の憲景が、北条早雲によって三浦氏が滅ぼされた際の永正9年(1512)の新井城の戦いで討死し、三男長景が城主になったとあったが、この頃は総社長尾氏の主家である山内上杉家において永正の乱という家督争いが起こっている最中で、長尾氏、長野氏共に扇谷上杉氏の家臣である三浦氏に援軍を出せるような状況であったとは考えにくい。また、長景という武将についても不詳であり、この後も前橋の事跡としては厩橋衆として出てくるのみで、石倉城については不明である。
次に城の名が登場するのは、武田信玄の時代で、永禄6年(1563)に武田軍が上野に侵攻して厩橋城を攻略し、石倉城に曾根七郎兵衛と与左衛門の兄弟を置いたという。
現地の碑によると、長景は厩橋城を守備しており、厩橋城が本城で、石倉城は支城だったか、もしくは洪水で破壊されたまま放置されていた可能性が考えられる。
石倉城の縄張を見ると、それは完全に崖城としての縄張で、利根川が遠かった時代の面影が無く、また、信玄による築城説があることも考えると、この時に城が信玄の手によって再築されたという可能性も高そうだ。ただ、信玄築城説が少し後の永禄8年(1565)であるように、石倉城の年代に関しては不明な部分も多く、今後の史料発掘に期待したい。
その後、厩橋城は攻略された同6年中に上杉方に奪回されているが、石倉城は武田方として残ったようで、現地の碑には、同8年に上杉軍が攻略して荒井甚六郎を城代とし、翌同9年(1566)7月には武田軍が再び奪ったとある。
これ以降、城は箕輪城代内藤昌豊が管理したようで、西上野の拠点だった箕輪城の対厩橋城の前線として、付城的な使われ方をしていたのだろう。そのため、元亀3年(1572)1月に上杉軍が攻略し、厩橋城へ入ると、すぐに武田軍が奪回し、上杉軍と武田・北条連合軍が利根川を挟んで対峙したこともあった。
その後、昌豊の養子昌月が天正7年(1579)に厩橋城の北条高広を服従させた後は、厩橋城の出城となったようだ。
武田氏の滅亡と本能寺の変を経て厩橋城が北条氏の支配に入ると、石倉城にはその家臣寺尾左馬助が入って石倉治部と称し、天正18年(1590)の小田原の役でも奮戦するが、利あらず、城を枕に討死したという。また、一説に左馬助は開城を申し出たが、開城時の混乱の中、寄せ手の依田康国が討たれたため、弟康勝が左馬助を討ち取ったという話もある。
そして、戦後は城の事跡は見えず、徳川氏入封で領内の整理が進められたため、廃城になったようだ。
城の構造は、現地には表裏2種類の図が描かれてあったが、これは外郭までを含めた縄張図と、三ノ丸までの鳥瞰図だろうか。縄張としては、ややせり出した崖際に本丸を置き、それを囲うように二ノ丸、三ノ丸を重ね、その崖以外の三方の外側を大きく長方形で外郭が囲むという典型的な崖城である。
群馬県庁の利根川向かいにある石倉町が城地だが、現在は宅地化しており、遺構と呼べる物は無かった。痕跡としては、石倉城二の丸公園や石倉城外堀公園という名前が残るのみで、二の丸公園に城址碑などがある。その他では、縄張図にある大山が王山公園として残っており、位置関係から城域が把握しやすいという程度だろうか。
利根川近くの本丸跡付近にも遺構の類は見られなかったが、利根川の浸食で厩橋城が一時放棄されていることを考えると、こちら側にも侵食の影響があった可能性が高く、それも遺構の残り具合に影響しているのだろう。
最終訪問日:2014/5/10