Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

若草山

若草山三重目から奈良市街の眺望

 標高342mの山で、笠を3つ重ねたように見えることから三笠山とも呼ばれ、和歌などではこちらの名もよく登場するが、葛尾(つづらお)山などの呼び名もある。

 古来、奈良盆地の各地に都が構えられていた頃から、和歌の世界には天の香具山などの愛でる対象としての山が多く出てくるが、和銅3年(710)に遷都された平城京においては、東に位置する若草山や、それに連なる春日山が、貴族達にとって最も身近な山であり、その愛でる山という役割を担った。

 都が平城京から山城国へと移った後も、北の平安京に対して奈良は南都と呼ばれ、奈良時代から存在する寺院が影響力を強く及ぼす宗教都市として存続し、その一角にある若草山も名所として生き続けることとなる。そして、後に雪景色は奈良八景にも数えられるほどの名所として知られた。

 もともと若草山とは、貴族達が風流で呼んだ名だったといい、室町時代頃までは葛尾山という名が一般的であったらしく、江戸時代になってようやく若草山という呼び方が一般化したようだ。また、異説として、三笠宮を憚って三笠山から若草山へと呼び方を変えたともいう。

 若草山の特徴としては、日本固有の野芝という芝生が一面に覆っていることだが、いつ頃から木々が無くなったかというと、奈良時代の絵図には木々が描かれており、少なくともこの頃にはまだ木々があったようだ。これが鎌倉時代になると、現在の山焼きの源流と見られる野焼きが行われていた様子が窺えることから、この頃には既に木々が無くなっていたと推測できる。ちなみに、野芝の生育には、奈良で神獣として神聖視されている鹿が、重要な役割を果たしているという。

若草山の頂上部の木陰で寛ぐ鹿

 冬の風物詩ともなっている若草山の山焼きは、江戸時代から周辺の農民によって行われていたものである。その起源としては、興福寺東大寺が寺領を巡って争った際、山を焼き払うことで和解したのが発祥という説もあるが、これはどうやら俗説であるらしい。ただ、若草山はもともと興福寺の境内地で、江戸時代には幕府が管理していた期間もあり、それによって山の帰属や野焼きの火の管理などがもつれ、両寺が争ったというのは事実のようだ。イベント化したのは明治時代からで、戦前は2月初旬、戦後は成人の日に行われてきたが、近年は1月末の土曜日に実施している。

 現在の若草山は、下から一重目、二重目、頂上部分の三重目に分けられ、幾つかのハイクコースが設定されているが、頂上までは約40分ほどの道程という。また、開山時期は3月中旬から12月中旬で、冬の間は閉山となっているほか、一重目、二重目に入るには入山料が必要である。三重目の若草山山頂へは、春日山遊歩道や奈良奥山ドライブウェイからも行くことができ、この場合は入山料は掛からない。

 自分は下から登らず、ドライブウェイを使って手軽に行ってみたが、木々の無い山のため、中腹や頂上から視界を遮るものが無く、奈良市街が一望できて非常に爽快だった。また、生駒の山並みで区切られた奈良市街が、盆地特有の濃縮された景色としてコンパクトにまとまっており、なんとも言えず心地よい景色となっている。これが夜になると、市街地の光と山の漆黒のコントラストが際立つと思われ、この若草山からの夜景が、新日本三大夜景に数えられているのにも、素直に納得がいく。

 

最終訪問日:2014/4/23

 

 

奈良市街や奈良公園から眺めていると、若草山って低そうに見えるんですが、実際に頂上に行ってみると、比高が結構あってびっくりしました。

ラクショーやんと、調子に乗って徒歩で登らなくて良かったです笑