Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

瀬田の唐橋

 琵琶湖の南、湖水が瀬田川へと流れ出てすぐの場所に架かる橋で、瀬田橋とも瀬田の長橋とも呼ばれ、古くは勢多の字が当てられていた。

 いつ頃に架けられたかはよく分からないが、日本書紀にも登場するほど古くからあり、琵琶湖と瀬田川の境目が、有史以前から重要な場所であったことを示す。また、その古さから、日本三古橋日本三名橋に数えられている。

 最初の頃の橋は、丸木舟を並べて蔓を搦めた浮舟橋であったようで、その様子からカラミバシとも呼ばれ、それが転じてカラハシになったという。また、いつの頃からか大陸様式の橋に架け替えられたことにより、唐橋の漢字が当てられた。

 史料上に初めて登場するのは、天武天皇元年(672)の壬申の乱の時である。近江を西進する大海人皇子軍が7月22日に唐橋に到達し、大友皇子軍は橋板を外して待ち構えていたが、結局は敗れ去り、翌日に乱は終息した。

 これを裏付けるように、現在の橋の南80mで橋脚の基礎が発掘されており、年輪年代測定で7世紀中頃から末期のものと判明している。この頃には、幅7mから9m程度の立派な橋が架かっていたようだ。以降、天平宝字8年(764)の藤原仲麻呂の乱で焼かれるなど、橋の軍事的な重要性は増し、平安京遷都後は、東国からの京への玄関口として、より重要な要衝となった。

 武家の世になると、唐橋を制するものは天下を制するといわれるほど重要視され、木曽義仲の家臣今井兼平が、寿永3年(1184)に頼朝軍を待ち構えたのを始め、承久3年(1221)の承久の乱南北朝時代にも、幾度となく戦場になっている。

 現在のように大橋と小橋の形になったのは、天正3年(1575)に織田信長によって架けられてからといわれており、それまでより少し上流に架けられ、欄干には擬宝珠が付けられた。しかし、この橋も、天正10年(1582)の本能寺の変の際に、明智軍の進軍を遅らせるために瀬田城と共に焼かれてしまっている。

 その後、江戸時代には、唐橋は膳所藩の管轄となって監督され、明治時代も木製の橋のままであったが、大正13年(1924)に鉄筋コンクリート製の橋に替えられた。戦後には、北に瀬田川大橋が架けられたことによって国道からは外されたが、地域の生活道路として相変わらず交通量が多く、老朽化も進んだため、昭和54年(1979)に今の橋へと架け替えられている。

 現在の唐橋は、大橋が約170m、小橋が約50m、中州を含めた全長は約260mあり、木製の風情ある橋ではないが、近江八景で瀬田の夕照と呼ばれた景観を少しでも残すため、旧橋の擬宝珠を取り付け、やや古風な外観となった。

 唐橋の道路上を走ると、太鼓橋のように中央が高く、特に小橋のほうはそれが顕著で、唐橋を渡っているという雰囲気がある。何より、瀬田川の上流や下流から見える中島と唐橋の風景は、周囲が近代的な建物となった今も変わらず名勝だった。

 

最終訪問日:2017/5/19

 

 

バイクで渡ると一瞬なんですが、唐橋近くの瀬田川沿いを走ったり、橋の入口に差し掛かると、その独特の勾配が良い雰囲気ですね。

橋の周辺も、一度散策してみたいです。