Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

関宿

 かつて東海道の宿場町として栄えたところで、その町並みが今も残っている。

 まだ世界の狭かった古代の日本では、鈴鹿山脈が、統治地域の中核である畿内周辺と辺境と見なされた東国を隔てていた壁であり、その東南麓には、境界を防衛、監視する施設として関所があった。その古代の三関のひとつ、鈴鹿関が置かれていたのが、この関という地名の由来となっている。

 鈴鹿関の設置については、白鳳元年という私年号が使われているため、開設の明確な年代は不明で、白雉元年(650)から大宝元年(701)まで諸説があるという。文献上は、日本書紀に書かれた弘文天皇元年(672)の壬申の乱に登場するのだが、これは実際の施設や機能を指したものではないという説もあり、結論を見ないようだ。その後、延暦8年(789)に桓武天皇によって廃されたのだが、関所はこの関宿の付近にあったとされている。

 関所が廃止された後も、街道沿いの要衝ということで発展した関の町は、江戸時代には五十三次と呼ばれた東海道の宿場の47番目となり、西に大和街道、東に伊勢別街道が分岐していたことから、その中でも大きな宿場町であったようだ。

 明治維新後も往来は多く、関宿は栄えていたが、今のJR関西本線が開通や、東海道本線関ヶ原経由で開通し、新たに整備された近代の東海道とも言うべき国道1号線も宿場の南を通ったことから、人の流れが変わってしまい、宿場町としての役割は消えた。 だが、急激な人の流れの変化が幸いしたのか、都市化による開発の波を免れ、現在では景観保護もあり、昔の宿場町としての風情を色濃く残す街並みとなっている。

 宿場町は、約1.8kmもの長さを持ち、江戸時代や明治時代の古い木造建築が200軒ほど続く様子は、当時の姿を想像させるには十分だろう。東海道五十三次の中で、都市開発されずに宿場町がこれほどの規模で残っているのは珍しく、妻籠や馬籠とはまた違う宿場町の雰囲気を堪能できる。

 

最終訪問日:2001/8/28

 

 

各地に伝統的景観を保護した街並みが増えていますが、この関宿ほどの規模がある宿場町は、あまりないですね。

訪れた頃は、観光地的な押し出しも強くなく、幼い頃に旧宿場町に近い場所に住んでいたので、なんだか身近に感じ、懐かしい雰囲気を愉しみながら散策しました。