Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

三井家発祥地

 呉服屋を興して江戸時代に豪商となり、明治時代には三井財閥を築いた三井家の発祥地。

 商家である三井家は、他の江戸時代の多くの商家と同様に武家の出自で、そもそもの本貫の地というのは、この伊勢ではなく近江であったとされ、藤原道長の六男長家の流れである藤原右馬之助信生が近江に赴任し、土着して三井を名乗る武士になったのが最初という。

 その後、乗定の時に男子が無く、近江の守護職にあった佐々木六角氏から高久を婿養子として迎え、子孫は鯰江を本拠に六角家臣として続いた。しかし、永禄11年(1568)の信長の上洛戦で、六角義賢・義治父子は居城観音寺城から逃亡してしまい、その時の当主であった高安もやむなく観音寺城から落ち延び、没落してしまう。このあと、義賢・義治父子は信長の暗殺を画策するなど陰に陽に動いたものの、最終的には天正元年(1573)に鯰江城で籠城の末、敗れ去って完全に勢力を失うのだが、高安もこの鯰江城に籠城していたようだ。

三井家発祥地の外観

 鯰江城での敗戦の後、高安の消息は不明となり、伊勢街道沿いを放浪していたとも、かつて六角家中の同僚であった蒲生氏の居城である日野城下に居たともいわれる。伊勢も近江も危険性のある織田領である上、この発祥の地となった松坂の城を築いたのは蒲生氏郷であり、さらに三井氏の鯰江と蒲生氏の日野とは山ひとつ越えた僅か10km足らずという近さも考えると、ご近所付き合いもあったであろう元同僚の、蒲生氏のもとに身を寄せていたというのが、可能性としては高そうだ。そして、客分としてか商人としてかは不明だが、氏郷の伊勢転封に従って伊勢松ヶ島へ移り、松坂城の築城で松坂に移ったのではないだろうか。

 武家としての三井氏の家伝は以上であるが、商家としての成り立ちは、高安の長男高俊が酒、味噌、醤油などを扱う店を松坂で興したことが最初である。この店が、高安の名乗った官途である越後守から越後殿の酒屋と呼ばれ、越後屋の屋号の元となった。そして、この高俊の四男高利が、現在の三井グループの祖となるのである。

三井家発祥地由来の碑

 高利は、元和8年(1622)にこの発祥地で生まれ、大商家の娘であった母殊法から商才を受け継ぎ、長じてからは、江戸に居た長兄高次(俊次)の下で丁稚奉公した。やがて、兄の命によって松坂で金融業を営んだのだが、これは高利の商才を恐れた兄達による封じ込めだったといわれる。

 松坂で財力を蓄えた高利は、延宝元年(1673)に念願の江戸進出を果たして越後屋の屋号で呉服店を開業すると、「現金掛値無し」や「店前売」といった新たな商法で庶民から人気を博し、3年後には2店目を開業した。そして、天和3年(1683)に駿河町へ移転したのを機に、呉服屋の隣に両替店を開店し、三井家繁栄の両輪となる呉服、両替という二大事業を確立したのである。この功績により、高利は三井家中興の祖と呼ばれ、後の三井財閥の象徴となる三井総本家の祖となった。

 この三井家発祥地には、高利の祖父母である高安夫妻と、父母である高俊夫妻を供養する五輪塔や、高利が産湯に使ったという井戸、総領家である北家の明治時代の当主高棟が建立した記念碑などがある。残念ながら一般公開はしておらず、訪れた時も門だけの見学だったのだが、調べたところによると、年に1回だけは一般公開されているようだ。

 

最終訪問日:2007/10/25

 

 

敷地内に入れないのは残念でしたが、この発祥地周辺には松阪商人の館があるほか、江戸時代の街並みが僅かに残っているので、商人の町らしい雰囲気がありました。

「おぬしも悪よのぉ」のイメージが強い越後屋の屋号が、六角という歴史上の確かな家に繋がっているのは面白いですね。