Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

山中城

 北条流築城術が、これでもかというぐらい見られる山城。箱根路の防衛拠点であった。

 山中城の築城は、永禄年間(1558-70)とされるが、天文23年(1554)に甲相駿三国同盟の一角として北条氏康の娘が今川義元の嫡子氏真に嫁いでいるため、伊豆と駿河の間は安定しており、わざわざ新城を築いて防備を厚くする理由が見当たらない。その後、永禄11年(1568)に武田信玄駿河へ侵攻し、三国同盟は崩壊してしまうのだが、この武田氏と北条氏の対立が明確となった時点が、本格的な築城の始まりだったと思われる。

 ただ、足柄城でも見られるような、街道と関所機能を取り込んだ城郭というのは北条氏の特徴で、三国同盟崩壊以前から街道整備の一環として砦程度の城郭はあったのかもしれない。

西櫓と西ノ丸の間にある障子堀を始めとする堀群は山中城の象徴

山中城岱崎出丸の切岸と長大な一ノ堀

 氏康の死後、北条氏は機能不全に陥っていた上杉氏との同盟を破棄して再び武田氏と結び、小田原の西方は安定するが、やがて信玄の跡を継いだ勝頼が上杉氏の家督争いである御館の乱上杉景勝に与したことから、再び両家は対立した。

 この時の両者の最前線は、沼津の三枚橋城と清水の戸倉城で、そこから10kmほど離れた山中城が、重要な連携拠点であったのは間違いないだろう。天正9年(1581)には戸倉城の笠原政堯が武田氏へ城ごと寝返っており、以降はより重要性が増したと思われる。

 この翌年、武田氏が織田・徳川連合軍の侵攻で滅亡し、直後に本能寺の変で信長が横死するという環境の激変があったが、北条氏はこの時、家康と旧武田領を取り合い、結果的に駿河や甲斐・信濃を徳川領として和睦し、婚姻を結んだ。これにより、伊豆と駿河の国境は平穏となったが、それも束の間、天正17年(1589)頃に秀吉との関係が悪化すると、小田原西方の重要拠点として城の大規模な改修工事が始められている。

山中城説明板

山中城三ノ丸の二重堀は中央の畝が通路化されている

 この工事は、翌年の小田原の役直前まで断続的に続けられたが、攻撃を受けた段階ではまだ未完成の部分もあった。

 このように、防衛拠点として非常に重視された山中城であったが、小田原の役では、山中城韮山城と共に秀吉軍主力の最初の目標となり、3月29日に攻撃が行われ、僅か半日で落城してしまう。籠城兵力は4千といわれるが、約7万もの秀吉軍相手では衆寡敵せず、城主松田康長と岱崎出丸を守っていた城将間宮康俊が討死し、援軍として籠もっていた北条氏勝も居城玉縄城へと落ち延びたのだった。だが、圧倒的だった攻城軍でも、大名である一柳直末が討死するといった損害が出ており、城方の奮戦と戦闘の激しさが窺える。

 山中城攻略後は、秀吉軍は僅か数日で小田原城に達しており、ここから約3ヶ月に渡る籠城戦が開始されるのだが、山中城は峠の防衛拠点ということで顧みられず、そのまま廃城となった。

山中城鳥瞰図

山中城二ノ丸はかなりの傾斜を持っている

 城の構造は、城内最高部である天守台を持つ本丸の北西側に、それに次ぐ標高の北ノ丸を置き、本丸の西側には二ノ丸、元西櫓、西ノ丸、西櫓といった郭群と空堀が設けられ、先端は西木戸で城外と区画している。また、二ノ丸の南側には、水の手となる2つの池を挟んで宗閑寺などがある三ノ丸が続き、国道を挟んだ南に巨大な岱崎出丸があった。岱崎出丸には、御馬場郭、擂鉢郭とそれに付随する武者溜などがあるほか、構築途中で放棄された郭もあり、当時の逼迫した状況を窺い知ることができる。

 山中城全体で大きく見てみると、本丸と北ノ丸、二ノ丸を中心に、そこから伸びる2つの尾根筋に、削平や盛り土によって郭群を構築した城と見ることができるだろうか。

 秀吉の侵攻に備えて拡張されたのが西ノ丸や岱崎出丸とされ、根本の城郭は、本丸から三ノ丸と北ノ丸程度の範囲だったと思われることから、当初は南北の尾根筋を城郭の中心として西への備えは二ノ丸及び馬出しとしての元西櫓が担い、三ノ丸には関所の機能があったのだろう。とは言え、この範囲だけでも山城としては決して小さくはない。

山中城西ノ丸

山中城擂鉢郭見張台から愛鷹山駿河湾の眺め

 また、西ノ丸や岱崎出丸付近の拡張部では、造成時期である最末期の北条流築城術が見られ、深く急峻な空堀に畝を残した畝堀や障子堀が非常に綺麗に残っている。

 土の城というのは、北条氏の城の基本ではあるが、現地を散策してみると、土だけでこれほどのものを構築したという土木技術の凄さは一目瞭然で、感動すら覚えるほどだ。高楼の類があったとされる天守櫓の基壇すら土である事を考えると、それは相当徹底されており、同じ北条氏の末期の城である八王子城の根小屋付近から感じられる近世的イメージとは全く違う。

 山中城の特徴としては、はっきりとした畝堀や障子堀が取り上げられるが、史料的な価値の高さ以前に、現地で見ると圧倒的な迫力と美しさが感じられ、軍事拠点という現実的な機能を追い求めた結果、機能美が宿ったというところだろうか。障子堀以外にも、本丸堀や北ノ丸堀、三ノ丸堀、岱崎出丸一ノ堀など、長大で見惚れるような堀が多く、是非とも現地で堪能して欲しい城である。

 

最終訪問日:2013/10/14

 

 

山中城を見ずして土の城を語る事なかれ、と言えるぐらい完成度の高いお城ですね。

見所が多すぎて、撮った写真の整理が大変でした笑

姫路城なら知っているというぐらいの、お城の知識があまりない人に土の城を説明する時も、山中城ほど最適な城はありませんね。

 

堀越御所

 鎌倉を目指したものの、伊豆に留まった鎌倉公方足利政知が造営した御所。ホリゴエと読み、御所跡と伝わっていることから、正確には伝堀越御所跡である。

 室町時代の関東地方は、尊氏の四男基氏から始まる鎌倉公方の差配地となっており、この伊豆国鎌倉公方の管轄国であった。しかし、鎌倉公方は、尊氏直系の子孫という血筋的な理由に加え、かなりの権限が認められていたことから、次第に自立を志向するようになっていく。これに対し、有力大名を次々と弱体化させ、幕府の基盤を確立した3代将軍義満は、自立的な鎌倉公方を掣肘し、関東への影響力を強めたいと考えるようになった。

 この対立は、双方の代を重ねるごとに深まっていき、やがて4代公方の持氏が、永享10年(1438)に幕府との融和に努めていた前関東管領上杉憲実討伐の兵を挙げたことをきっかけとして、幕府は鎌倉公方討伐令を下し、永享の乱が起こるのである。この乱以降、関東は争乱の時代となっていく。

 この永享の乱は、幕府側の勝利となり、持氏は翌年に自害へと追い込まれ、鎌倉公方は一旦滅びてしまうのだが、後に関東豪族の要望もあり、文安年間(1444-49)か宝徳元年(1449)に持氏の遺児成氏が擁立され、再び鎌倉公方が再興された。しかし、成氏を補佐する関東管領には、成氏の父と対立していた憲実の嫡子憲忠が就くなど、代替わりしたとは言え、最初から不穏な空気が漂っていたようだ。

堀越御所周辺案内図

 その後、成氏は、父の恨みを晴らすためか鎌倉府内の対立からか、享徳3年12月(1455.1)に憲忠を謀殺し、上杉討伐の軍を出すが、これは結果的に上杉氏を支援する将軍家との対立となった。この争乱は享徳の乱と呼ばれ、約28年にも渡る長い戦いとなる。

 乱の初期、将軍義政は、上杉氏を支援すべく各大名に出陣を命じ、成氏が北関東で戦っている間にその命で出陣した今川範忠が鎌倉を占拠したため、成氏はやむ無く鎌倉を諦めて古河に移った。これが古河公方の始まりとなる。

 また、義政は、成氏に対抗すべく、異母兄政知を新たな鎌倉公方として長禄2年(1458)に送り込んだ。しかし、政知自身に実権が無かったために諸豪族の協力を得られず、成氏の影響力が強い関東には入ることができないまま、山内上杉家の領国である伊豆国の堀越に留まってしまう。

 このような状況となってしまった政知が居館として造営したのが、この堀越御所であった。ただし、入国当初は国清寺を宿所としており、御所造営は寺が焼き討ちされた後の長禄4年(1460)である。

 政知が堀越に留まっている間、援軍となるはずの斯波氏の出陣が斯波家中の内訌で頓挫し、補佐役に付けられた渋川義鏡が上杉氏と対立するなど、討伐態勢を整えられないまま時は過ぎ、やがて斯波氏などの有力大名の家督争いに義政自身の後継者問題が絡まって応仁元年(1467)から応仁の乱が勃発してしまう。

堀越御所跡の全景

 こうなると幕府自体が分裂したも同然で、当然のことながら政知は放置され、文明3年(1471)には成氏方と三島で戦って敗れるなど、益々鎌倉入部は遠のいていく。そして、上杉家中でも、祖父や父が家宰を務めた重臣長尾景春が家宰に就けなかったことから叛乱を起こすなど、齟齬が出始め、ついに上杉顕定は文明10年(1478)に成氏と和睦し、幕府も同14年11月(1483.1)に成氏と和睦した。これにより、政知の存在は宙に浮いてしまい、伊豆一国のみが政知の差配する国として成氏から譲られ、堀越公方として定着したのである。

 その後の政知は、嫡子茶々丸を廃嫡して幽閉し、諫言した関東執事上杉政憲を自害させているが、世継ぎの次子潤童子と上洛して出家していた末子清晃の、母方の従兄弟が管領細川政元の養子澄之であり、これは清晃を将軍に擁立することによって、中央への影響力を確保するためだったという。

 だが、政知はそれを見ることなく延徳3年(1491)に没してしまい、その歪みは、政知の死の3ヶ月後に長子茶々丸が牢から脱し、潤童子とその母を殺害して強引に家督を継ぐという事件となって具現化する。だが、中央では政知の加担した工作が実を結び、明応2年(1493)に細川政元らが明応の政変を起こし、清晃改め義澄を11代将軍へと擁立した。

堀越御所解説板

 この義澄の将軍就任の年かその前後、伊勢盛時(北条早雲)による伊豆入りが行われ、敗れた茶々丸は御所から落ち延びるのだが、戦国時代の幕開けと言われたこの出来事も、近年では中央の情勢と連動した事件とするのが有力のようだ。つまり、義澄擁立によって黙認されていた茶々丸の扱いも変わり、将軍の兄と生母の殺害が問われるようになったという。また、一説に盛時や今川氏親の母北川殿は、義澄を補佐した政所執事伊勢貞宗の従兄弟といわれ、この繋がりから早雲に討伐令が下ったともいわれる。

 茶々丸の落去後、御所はその機能を失って廃されたが、早雲は御所近くの韮山城に本拠を置き、周辺一帯はその後も伊豆の支配拠点で在り続ける事になった。また、茶々丸自身は、関戸氏や狩野氏の支援を受けて早雲に対抗し、5年間も戦っていることから、国内外を巻き込んで相当粘り強く戦ったようだ。

 訪れた時の御所跡は、残念ながら説明板がある以外は広い平地があるのみだったが、今後は発掘調査が行われ、いずれは史跡公園として整備されるらしい。御所跡の近くには、北条政子産湯の井戸や北条氏邸跡などもあるため、付近は平安時代末期から戦国時代の黎明期までの史跡が集中しており、御所だけでなく、それらも一体化して史跡公園になると思われ、整備が終わった暁には、もう1度訪れてみたい場所である。

 

最終訪問日:2013/5/19

 

 

自分は、願成就院にバイクを止めて周囲を散策したんですが、堀越御所へ行くなら、そのすぐ北の光照寺の横に立派な無料駐車場が整備されているので、こちらがより近かったですね。

ただ、鎌倉殿の13人の影響で、周辺一帯は堀越御所よりも、鎌倉時代の北条氏がスポットとして推されているのかも知れませんが。

 

深沢城

城跡の入口に建つ深沢城址

 深沢城としては、今川氏親の築城が最初となるのだが、それ以前に葛山氏の庶流深沢氏の居館があったと推定されている。

 葛山氏は、鎌倉期から駿東に御家人として勢力を張っており、城から南へ10kmほどの葛山付近を本拠としていた。室町時代は将軍直属の奉公衆で、隣接する今川氏の強大化により次第に今川家臣化して行ったのだが、全盛期にはこの地に一族を分出するだけの力があったのだろう。

 深沢城の築城時期は不明だが、氏親の治世、つまり実質的に家督を継承した15世紀末から死没した大永6年(1526)までの間であるのは間違いない。具体的には、後の北条早雲である伊勢盛時と協力し、11代将軍義澄の命でその生母円満院を殺害した伊豆の足利茶々丸討伐に当たった際、堀越御所から逃亡した茶々丸の探索を名目に甲斐へ出兵した早雲の動きに関連して明応4年(1495)前後に築城されたか、後の永正年間(1504-21)頃に武田信虎と争って幾度と無く今川軍が甲斐へ侵入していた時期に築かれたかのどちらかだろう。

深沢城本丸は開墾されている

 その後、今川氏が武田氏と和睦すると北条氏がこれに反発するなど、情勢は複雑化するが、それぞれの当主が代替わりした今川義元武田晴信(信玄)、北条氏康の時代に三国同盟が成立し、深沢城もこの時代はやや重要性が薄れたと思われる。

 しかし、永禄3年(1560)に義元が桶狭間で信長に討たれると、その子氏真は求心力を維持できず、これを見た信玄は、上杉謙信との対決が一段落したのもあって駿河への領土欲を剥き出しにしていく。こうして信玄は、今川氏から独立した家康と共同で、ついに永禄11年(1568)末に今川領へと侵攻を始める。

 この侵攻に対し、氏真は対抗しようとするが、もはや今川家中は寝返り続出で統制が利く状態ではなく、本拠地駿府すら維持できなくなっており、結局は朝比奈泰朝掛川城に移って籠城した。

 しかし、この侵攻に氏真の舅氏康が反発し、翌年に支援のために駿河東部へ氏政を送り、興津を望む薩埵山に布陣させ、武田軍を牽制して一旦は退却させている。また、この進出に伴って駿東は北条氏が押さえることとなり、深沢城も北条氏に属したようだ。

深沢城袖郭と馬伏川への切岸

 この後、武田軍は再度伊豆や駿河へ侵攻し、8月からは武蔵相模へ侵攻して小田原城を包囲するなど、北条方に対する威示行動が増えるが、これは駿河支配を確実にするためであったとの説もある。実際、信玄は年末から翌永禄13年(1570)初めに掛けて3度目の駿河侵攻を行い、駿河支配の地歩を固めていった。この年に武田家臣駒井政直(昌直)が深沢城代に任じられており、深沢城もこの過程で奪取されたと見られる。

 だが、北条氏も手をこまねいていた訳ではなく、同年4月には大軍を動員して深沢城を奪い返し、家中随一の猛将北条綱成を城将として据えた。綱成を城将としたことに、北条氏の危機感と城の重要度というのがよく解る。

 これに対し、信玄も同年11月に大軍で攻囲したが、名将綱成の采配と、その武名を恐れた士卒によって攻城は進まなかった。そこで信玄は、翌年正月に矢文で開城を迫ったのだが、これが有名な深沢城の矢文で、その中で滔々と、北条氏に対する武田の功、今川討伐の正当性を語り、最後には小田原への使いを邪魔しないので後詰決戦をしようではないかと恫喝に近い文言で結んでいる。戦国大名らしく、強気と大義名分の塊のような文で興味深い。

深沢城三日月堀

 この降伏勧告後も、綱成は抗戦を続けたが、信玄が金堀衆を動員して城塁を崩し始めると綱成も戦況の不利を悟り、小田原からの援軍を待たず、遂に16日に開城して退去した。

 武田方の再奪取後、城には再び駒井政直が入城したが、政直は天正10年(1582)の武田氏滅亡の際に城に火を放って退去し、後に徳川氏に仕えて武田旧臣の代表者的な立場を務めている。

 武田氏滅亡後は、駿河を得た家康が北条氏との境目の城として領有し、同12年(1584)の小牧長久手の合戦の際に三宅康貞が城主となったが、同18年(1590)の北条氏の滅亡と戦後の家康の関東移封によって役目を終え、廃城となった。

 城の構造は、馬伏川と抜川の合流部に突き出した台地を城地としており、合流部に最も近い部分を本丸、そこから現地縄張図に無い馬出を挟んで二ノ丸、さらに馬出を挟んで三ノ丸と続く。ただ、川からの比高は10mほどで、城内や三ノ丸の南側にも平坦な地形が続いており、要害の地というわけではなかった。川が削った台地の崖を利用した崖城と言えるだろうか。

深沢城解説板

 城跡は、全体的に開墾されて田地となっていたが、土塁や空堀などは比較的原型を留めており、散策すれば十分に城の規模や構造を把握することができる。特に本丸から二ノ丸へ続く部分の空堀や馬出状の地形などは明確で、開墾されているために視界も広く、縄張が把握しやすい。三ノ丸は、道路で分断されてはいるが、三日月堀が非常にはっきりと残っており、こちらも一見の価値がある。

 一説に、現地縄張図の本丸は城の中心ではなく、二ノ丸が中心であったともいう。その理由は、本丸と二ノ丸の間の馬出が二ノ丸を守るような形であることや、二ノ丸が城内最高部となることからである。

 ただ、地形的に見れば、突端部の本丸は川の合流点が堀となって防御がし易く、また、郭も広いことから、中核的施設があったのは間違いなさそうだ。また、川に削られた丘陵部の城では、標高が低くても突端部に本丸を置くケースがあることも考えると、どちらにも理が有るように思える。

 もしかすると、当初は突端部に本丸が築かれ、拡張の過程で主郭となる機能が移されていったものの、名称だけはそのままにされたのかも知れず、また、本丸の郭の広さから、戦時的な意味よりも城主や一族の居住スペースという意味での本丸だったのかもしれない。当時にどのような運用のされ方だったのかは不明で、この辺りは想像力を掻き立てられる部分だろうか。

深沢城大手付近の空堀

 

最終訪問日:2013/5/19

 

 

三ノ丸の反対側は農家の方の住宅にもなっていたんですが、その前の空堀には土橋のように家への通路が架けられていて、城跡の雰囲気にとても合っていました。

個人的には妙に羨ましかったですね。

こんな防御力が高そうな家に住んでみたいものです。

 

花倉城

 花倉の読みとしては、日本郵政の地名データベースから引くとハナグラとなっているため、城名も濁るのが正解かと思われる。ただし、当時は葉梨城や葉梨の城と呼ばれていた。

 築城年代は不明だが、今川氏2代基氏の五男で、駿河遠江の守護に任じられた範国へ葉梨荘が与えられたのが、この地と今川氏の関わりの最初とされ、それは建武4年(1337)ともその翌年ともいう。

 範国の駿河守護職就任にも同じくこの両年の説があり、守護就任に伴って宛がわれたものだろうか。ただ、建武5年説に関しては、その正月に起こった美濃国青野原での合戦の功で宛がわれた可能性も考えられる。

 いずれにせよ、これに伴って葉梨には地頭代として松井助宗が入部しており、南朝が優勢だった駿河ではあるが、きちんと支配の実態はあったようだ。

 その後、文和2年(1353)に範国の子範氏が葉梨荘に入部し、居館を築くと共に詰城として花倉城を築いたという。この頃、まだ父範国は健在であったが、引付頭人などを務めたことから主に在京していたと思われ、本拠の移動は範氏の主導かと思われる。

花倉城本丸

花倉城二ノ丸から大きな堀切を挟んで見える本丸の切岸

 それまでの本拠であったといわれる岸城や大津城が、島田市地域という、言わば駿河の入口であった事を考えると、この東進は、駿河の実効支配がある程度進んだと見ることができるだろうか。以後、曾孫範政が応永18年(1411)に駿府に入部するまで、一帯が今川氏の本拠として機能した。

 次に花倉城が歴史に登場するのは戦国時代で、範政から4代の孫氏輝が天文5年(1536)3月に24歳という若さで早世したことから、その弟達の間で家督争いが起こった時である。

 この争いは花倉の乱と呼ばれ、側室福島氏の子で三男の玄広恵探と、正室寿慶尼の子で五男の栴岳承芳の対決となった。ちなみに、花倉の乱の名は、玄広恵探が花蔵殿と呼ばれていたところから付けられたという説と、この一帯の地名から取られたという説がある。ただ、この頃の一次史料には、前述のように城名としては葉梨城や葉梨の城と書かれており、つい連想してしまいがちではあるのだが、城の名から来ているというわけではない。

 この乱において玄広を推していたのは、当然ながら生母の一族である福島一門で、玄広恵探派の筆頭である福島越前守は、平和的解決を望む寿桂尼の説得を拒否し、更に翌日未明に今川館を強襲したが、これは栴岳承芳派に撃退された。しかし、玄広恵探派はそのまま花倉城、方ノ上城を拠点とし、抵抗の意思を示すのである。

花倉城解説板

花倉城本丸と二ノ丸の間の大きな堀切

 このため、寿桂尼らは武田氏や北条氏からの支援を取り付け、まず方ノ上城を落とし、玄広恵探の籠もる花倉城へ迫ると、劣勢に陥った玄広恵探は城を支えることができず、やがて間道があったと思われる西方向へ落ち延び、普門寺で自刃したという。そして、そのまま花倉城は廃城となった。

 城は、典型的な中世的山城で、烏帽子形山系の東部の峰という山深い地勢がそのまま防御力となっており、二ノ丸と本丸、及びそれに付随する段郭程度しか郭らしい郭は無く、居住空間をあまり考えない詰の城というのがよく解る。また、防御設備の土木工作もあまり施されていないため、規模的にも構造物的にも、小さくまとめられた城と言えるだろうか。

 登城口から登り始めると、すぐに土橋が見え、その横には削平地があり、入城の際に動線を抑制する何らかの施設があったのだろう。そこを過ぎ、もう1本の土橋と堀切を越えると坂道となり、本丸下の帯郭、二ノ丸、そして本丸が次々と現れてくる。

花倉城の2本目の土塁は主郭へ向かう通路になっていたか

花倉城カンカン井戸

 二ノ丸は、長径20mほどの楕円形で、南側に堀切を挟んで峰筋を削平した郭が続いているほか、二ノ丸縁辺には土塁も残っていた。二ノ丸と本丸の間は堀切が穿たれ、堀切はそのまま竪堀となって下に続いている。その上の本丸はやや細長い形ながら、端に櫓台と思われる盛り上がりがあり、その先に1段下がって削平地と、武者走りを挟んで小郭があった。また、二ノ丸の

 国道1号線から城へ向かうには、藪田西I.C.から北上し、葉梨小学校北側の信号を左に折れ、すぐに見える花倉川沿いの道を北西方向へと進む。途中、道なりに進むと花倉川が分岐し、半谷川沿いの道となるが、そのまま進んでいくと溜池を越えたところで城の案内が現れ、そこから延々と茶畑の中を上って行くと登城口に到着する。これを当時の人は足で登ったと考えると、城がいかに峻険な立地に在ったかということを実感せずにはいられない。

 この城の登城口は、舗装道の終着点となっており、そこには駐車スペースが2台分ほど用意されているのだが、そこまでの道が茶畑用の農道であるため、軽トラ1台分の幅しか無い上にガードレールも無い所がほとんどで、車で行くならすれ違い等でかなり注意が必要になるだろう。

 

最終訪問日:2016/5/21

 

 

延々と茶畑の中の農道を走り続けるので、登山道入口に着くまでは、対向の車を心配ししつつ、辿り着けるのかどうか不安でした笑

そんな山深い場所にあるお城でしたけど、人の手がちゃんと入って散策しやすくて、良いお城でした。

 

白山城

 天方九ヶ村を領した天方氏の城。

 天方を含む飯田荘は、鎌倉時代より首藤山内氏が地頭を務め、その庶流が天方に土着し、地名を姓とした。その時期は、南北朝時代の14世紀後半頃という。

 天方氏は、当初は白山城から三倉川を挟んだ北向かいの天方本城を居城としていたのだが、5代通季の頃である文亀元年(1501)に遠江を巡って、遠江守護斯波義寛と、かつての遠江守護家である今川氏親の間で争いがあり、義寛の要請で侵攻してきた信濃守護小笠原貞朝の軍に奪われてしまった。

 この時、通季は今川勢と合力して籠城する小笠原勢を攻撃し、城を奪回したのだが、通季はより堅固な城の必要性を感じ、新たに築城したのがこの白山城である。

 ただ、白山城の事跡自体は全く不明と言っていいほどで、その北麓の台地が城代の屋敷であったという伝承が伝わってはいるものの、通季以降の本城であったのか、麓に屋敷を持つ城代が管理していた城だったのかなど、どのように城が使われていたのかについては、ほとんど判っていない。

細長い白山城本丸を北西方向から

白山城本丸北西の土橋

 天方本城に代わって築城されたという伝承が本当なら、文亀年間(1501-04)か永正年間(1504-21)の初め頃に築城され、天方新城が築かれたとされる永禄11年(1568)頃まで本拠として機能したということになる。

 城へは、谷本神社の西側から獣道のような登山道が出ており、麓からの取り付きは竹藪を直登するような形となるが、尾根筋に入れば、シダ系の植物が生えているのみで藪は浅く、傾斜も比較的緩やかで歩き易かった。

 谷本神社から頂上へ向かう北西方向の尾根筋には、最高部の本丸の直下の段から数えて9段もの段郭があり、途中には谷本神社の背後へと伸びる明確な竪堀も確認できる。この竪堀が段郭と交差する所はやや崩れているが、往時はもっと明確な堀切で、竪堀へと繋がる尾根筋の遮断ラインだったのではないだろうか。

白山城本丸と直交する形で伸びる次段

白山城から麓の谷本神社方向へ続く竪堀

 本丸は、南東から北西に伸びる頂上部の細長い郭で、その中ほどから南西方向に直交する次段があり、広さから考えても、このT字となっている2郭が主郭だったと思われる。

 本丸北西側は、主郭から土橋を挟んだ先に削平地があり、その直下の堀切を経た先にも削平地が確認できた。ただ、その先にも武者走りのような形で平坦な細い地形が続いていたものの、ここから先には明確な遺構らしきものは見当たらず、城外との区切りは不明確である。

 築城背景を考えると、この先にも更に遺構が続くというほど大きな城とは考えにくく、最後の明確な削平地の辺りが、城の境目ではないだろうか。

 城全体としては、あくまで詰城の範疇を出ない中世的な山城で、郭の広さを考えても、平時に居住する城ではなかったと思われる。ただ、段郭を始めとする遺構の保存状態は良好で、それなりに見応えのある城ではあった。

白山城本丸の北西にある出郭のような削平地

9段あった白山城南側段郭の6段目の上の堀切

 

最終訪問日:2016/5/21

 

 

登山道の目印となる谷本神社は、県道沿いで場所が分かり易くて駐車スペースもあったので、非常に有り難かったです。

登山道の入口を見た時には、どうなるかと思いましたが、城域内の道は下草も僅かで歩き易く、直登だからと構える必要もなかったですね。

マイナーながら、城好きなら登って損はしない城です。

 

沼津城 (三枚橋城)

 現地には、沼津城址碑しか建っていないが、沼津城は三枚橋城の跡地を利用したもので、三枚橋城が前身と言える。ただ、2つの城の存在期間はかなり離れており、直接の前身と言うのは難しいかもしれない。ちなみに、三枚橋城を沼津古城と呼ぶ場合もあるようだ。

 三枚橋城が築城された年代には、元亀元年(1570)8月の武田信玄在世中に築かれたという説と、天正5年(1577)に信玄の子勝頼が築いたという説の、2つの説がある。甲陽軍鑑などにあるのは後者の説で、これが一般に知られていたが、他の史料から元亀元年の城郭普請に関する記述が見つかり、今では前者が有力になっているという。

 築城時の時代背景としては、前者の説では、永禄11年(1568)の信玄の駿河侵攻に伴う三国同盟の崩壊と、その結果である北条氏と武田氏との対立から来る、翌年10月の小田原城攻囲後の三増峠での武田軍の勝利、そして翌月の第3次駿河侵攻という流れがあり、沼津周辺を掌握した武田氏が、北条方の最前線である戸倉城に対する拠点として築城したということになる。

 この永禄11年から翌元亀2年(1571)にかけては、御殿場の深沢城でも幾度か攻防があり、沼津から御殿場に掛けての富士山東麓が、両家の攻防ラインであったようだ。

 一方、後者の説における時代背景は、北条氏康死後の武田北条間の同盟復活を経て、天正6年(1578)の上杉謙信死後の上杉氏の家督争いに両者が加担したことによる再対立であったとされる。

沼津城址

 しかし、城が築かれたとされる天正5年(1577)は、勝頼が北条氏政の妹を後室に迎えた年で、甲相同盟はむしろ強化が図られており、わざわざ領境を不穏にする築城を行う理由が無い。このため、後者の説では、天正7年(1579)の築城という説も挙げられている。

 いずれにしろ、三枚橋城は武田方の最前線として築かれたことには違いは無く、城主には春日虎綱(高坂昌信)の次男昌元(高坂源五郎)の名が見えるが、昌元は天正10年(1582)2月の織田・徳川連合軍による甲斐侵攻の際、沼津城を放棄して甲斐救援に向かったため、城が戦場になることはなかった。

 一説に、寝返りで武田方となっていた戸倉城が落城したため、三枚橋城の守備兵が動揺し、自落したともいう。

 戦後、城は一時北条氏のものとなったが、後に徳川氏に明け渡されたようだ。この当時、北条氏は織田氏と同盟しており、戦後の論功行賞で武田旧領の内、駿河一国が家康に与えられたため、波風を立てなくなかった北条氏は、それに従って明け渡したと思われる。とは言え、実際のところ、織田・徳川連合軍は戦果を独占するため、北条氏側に戦況が漏れないようにしていたと見られ、出遅れた北条軍に領有を主張するほどのさしたる軍功が無かったのも事実であった。

沼津城説明板

 こうして、三枚橋城は徳川氏の属城となり、城には東条松平家を継いでいた家康四男の忠吉と、それを後見する松井松平康親が4万石で入部したのだが、幼いとは言え実子を城主に据えた所を見ると、家康は城をかなり重視していたのだろう。

 この武田旧領の差配が終わった直後の6月、謀反により京で信長が横死するという大事件が起こる。いわゆる本能寺の変だが、これによって領国化して間もない武田旧領は、織田家臣の撤退や武田旧臣の蜂起などで勢力空白地化してしまう。

 これに乗じ、徳川氏と北条氏は、草刈場とばかりに上野や信濃、甲斐に兵を繰り出し、天正壬午の乱と呼ばれる両者の戦いが起こるのだが、奇しくも三枚橋城は家康の見立て通り、領境の重要な城となったのだった。

 その後、同年中に徳川氏と北条氏が和睦し、婚姻も結ばれたため、城の重要性は下がったが、忠吉と康親、康親の没後は子の康重が変わらず城に在り続け、この城で家康と北条氏政・氏直父子との会見も行われたという。また、天正18年(1590)の小田原の役の際には、上方軍の拠点して活用され、秀吉はこの城で津軽為信の謁見を受けている。

沼津城の解説碑

 戦後、家康は旧北条領へと転封されたため、駿東は中村一氏に与えられ、三枚橋城には弟の一栄が入城した。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後には、東海道の要地として翌年に譜代の大久保忠佐が2万石で入部したのだが、忠佐の子は早世しており、同18年(1613)の忠佐の死によって無嗣断絶となっている。

 この少し前、大久保彦左衛門として知られる弟忠教を養子にしようとしたものの、彦左衛門は、自らの勲功に非ずとして断ったという逸話が有名だが、こうして沼津藩は断絶し、これに伴って代官支配地化され、三枚橋城も翌年に廃城となった。

 その後、160年以上経った安永6年(1777)に、水野忠友が沼津に2万石で封じられて沼津藩が成立し、城は沼津城として再興されたのだが、この城は三枚橋城の北半分を利用したもので、大きさは半分程度であったようだ。

 沼津藩は、後に忠友が5千石を、その養子忠成が1万石をそれぞれ2回ずつ加増されて最終的には5万石を領し、老中や奏者番などの要職に就いた藩主が、忠成を始め多く出た。しかし、最後の藩主である忠敬は、戊辰戦争の際に新政府側に味方しており、徳川宗家を継いだ徳川家達駿河入部に伴って上総国菊間に移っている。

中央公園となっている沼津城本丸跡

 その後、沼津城は、維新後に沼津兵学校として使われていたが、明治5年(1872)に払い下げで解体され、翌年には廃城令で正式に廃城処分となり、城地も次第に市街地に没していった。

 城の構造は、狩野川を東南方面の防御とし、今の中央公園付近の本丸を中心に、北と西の方向へ二ノ丸、三ノ丸と同心円状に郭を広げ、三ノ丸の北東から南に掛けては、ぐるりと外郭が覆うという形である。

 後に沼津城として再興された際は、泰平の時代というのもあって政庁という要素が強く、前述のように半分程度の大きさで、南半分を始め外郭の一部などは城地に入らなかったのだろう。中央公園付近の本丸のすぐ南、現在の静岡銀行の辺りが、もう城外との境であったようだ。

 現在の城跡は、都市化で市街地に埋もれており、中央公園の中に城址碑があるだけである。この城址碑の土台の石は、昭和48年(1973)に発掘された石垣の石材で、三枚橋城当時の石垣という。この石材以外では、地図上で外堀通りや大手町、川廓などの名前が見られるのが城の僅かな名残だろうか。

 ちなみに、城址碑の建つ中央公園は沼津駅から至近で、城を訪れるのは、鉄道を利用するのが一番便利なようだ。公園と接する旧国一通りは、市街地の幹線県道で駐車場などが無く、車で行くのはやめておいた方が無難かもしれない。

 

最終訪問日:2013/10/14

 

 

城は見えているのに、バイクを止める場所が見つからず、グルグルと彷徨いました。

市街地の城あるあるなんですが。

なんとか見つかって良かったです。

 

韮山城

 伊勢盛時こと、北条早雲が本拠とした城。

 韮山城の築城は室町時代で、堀越公方足利政知重臣外山豊前守が文明年間(1469-87)に築いたとされる。城から狩野川沿いの堀越御所までの距離は、1kmちょっという近さで、立地的に考えて、豊前守は政知に信頼されていた武将だったのだろう。

 政知は、延徳3年(1491)に病死し、その3ヶ月後に、政知の長子茶々丸が後継者であった次子潤童子とその母を殺害して強引に家督を継ぐのだが、豊前守は後にこの茶々丸によって誅殺された。謀殺の理由は明確ではないが、城と御所の関係から、政知の意向を理解していたと考えられる豊前守が、政知の意向に反した茶々丸に素直に従ったかどうかは疑問の残る所で、両者の間で政治的な何事かがあったように思われる。

 この豊前守や秋山新蔵人の誅殺は、奸臣の讒言を信じて忠臣を討った茶々丸の愚かさを伝える逸話となっているものの、もっと深い政治的対立が透けて見えるのだが、実際はどうだったのだろうか。

 茶々丸が強引に家督を継いだ後、幕府はこれを黙認したようだが、京で出家していた茶々丸の異母弟清晃が、明応2年(1491)の明応の政変によって11代将軍義澄として擁立されると、伊豆にもその影響が及んでくる。潤童子の母は義澄の母でもあり、茶々丸は、将軍の生母殺害を問われることとなったのだ。

 こうして同年かその前後に早雲の伊豆討ち入りが行われ、早々に茶々丸は御所を落去し、韮山城も早雲のものとなった。ただ、当時の韮山城に誰が在城したかは不明で、豊前守誅殺の後に茶々丸と近しい武将が城主となったのか、それとも空城となっていたのか、詳細は知れない。

韮山城案内板

韮山城本丸から富士山の眺め

 早雲の伊豆入りは、戦国時代の幕開けとも言われる。それは、素浪人の早雲が堀越公方という旧勢力の混乱に乗じて伊豆一国を奪ったとされたからであった。しかし、かつての素浪人説は否定され、早雲は幕府政所執事伊勢氏の庶流備中伊勢氏の出ということがほぼはっきりしており、家臣に備中出身の姓が見えるなど、その傍証も多い。

 その伊勢氏には、いくつかの系統に分かれているのだが、伊勢平氏説のほか、藤原氏伊勢国造の末裔という説もあるという。早雲が出た系統の伊勢氏は、鎌倉時代には足利家臣として守護代などを務めたことが見えるように、比較的身分の高い武士の系統であった。

 早雲自身は、9代将軍義尚に仕えた幕臣であり、父盛定も将軍申次を務めた武将で、政所執事伊勢貞親の補佐役でもあり、一説に貞親の父貞国の娘が室であったという。つまり、早雲は政所執事の甥でもあるれっきとした高級幕府官僚で、早雲が生涯伊勢氏を名乗っていたのは、出自が当時の名門伊勢氏ならば、当たり前の話と言える。

 早雲は、伊豆入りから5年掛けて伊豆を統一した後、相模にも進出し、小田原城も奪取したが、小田原城には嫡子氏綱を置き、自らは韮山城を本拠とし続けた。

 北条氏の居城として名高い小田原城であるが、北条を称したのも、小田原城を本城化したのも氏綱であり、早雲ではない。早雲自身は、今川氏や幕府との関係が深すぎたこともあったのか、明確に戦国大名を志向したのは子の氏綱の代であった。

韮山城二ノ丸に残る土塁

韮山城本丸の南側にも郭がある

 永正16年(1519)の早雲の没後は、子の氏時が城主を務めたともいうが、基本的には北条本家の直轄の城だったと思われ、永禄年間(1558-70)末には氏綱の子氏康の五男氏規が入り、韮山衆を率いたという。また、城も伊豆支配の拠点として改修され、東の天嶽の頂上に天ヶ岳砦を築き、各尾根の突端に和田島砦、土手和田砦、江川砦を築いて防備が固められた。そして、永禄12年(1569)には、武田信玄の侵攻に対し、氏規が城外で戦って撃退している。

 だが、天正18年(1590)の小田原征伐では、氏規率いる籠城兵約3千6百に対し、織田信雄率いる秀吉軍は4万4千にも上り、緒戦はうまく撃退したものの、その後は包囲戦となったために手も足も出ず、約3ヶ月の籠城の末に氏規と旧知だった家康の説得で開城した。小田原城開城の10日余り前のことである。

 氏規はその後、小田原城開城を説得し、兄氏政、氏邦の切腹介錯を務め、追い腹を切ろうとしたが、徳川家臣井伊直政に止められて果たせなかったという。後に氏規は氏直と共に赦され、氏直の早世によって嫡子氏盛が宗家を継いだため、氏規の系が狭山藩主として血脈を伝えた。また、韮山城は家康の関東移封に伴って内藤信成が城主となったが、慶長6年(1601)の転封によって廃城となっている。

 韮山城本体は、伊豆箱根の山塊の東側にある独立丘陵に築かれ、北から三ノ丸、権現郭、二ノ丸、本丸と配されていた。そして、西麓には御屋敷という居館部分を設け、その西側には二重の水堀があったという。だが、城の規模はそれほど大きくなく、本丸もかなり小振りで、大規模な防御設備というものも見られず、拠点というには心許ない。

韮山城三ノ丸へ続く虎口の桝形

韮山城権現郭の虎口の桝形

 現地で散策すると、小田原征伐時の3千6百という籠城兵力が規模に比べ過剰に思えるほどだが、この城の肝は周囲の砦にあり、特に江川砦と土手和田砦が重要で、本城西側の水堀がそのまま江川砦と土手和田砦まで繋がっていたという。つまり、韮山城よりも高い天嶽を東の壁として、その尾根筋を防御線に取り込み、全体で韮山城として機能していたわけである。

 現在は、城の御屋敷と呼ばれる部分が韮山高校となり、三ノ丸もそのテニスコートとなっているが、他の部分は土塁や堀切などがしっかりと残っており、三ノ丸東側や権現郭東側の桝形虎口も明瞭だった。

 ただ、本丸の南側には、武者走りのような土塁状の通路を経て、その先に四方が土塁に囲われた小さな郭と、続いて二方が土塁となった郭があるのだが、本丸後方を防御する感じでもなく、なんだか不思議な空間となっている。絵図では、塩蔵がここなのか、それとも西麓側の場所なのかはっきりしないのだが、本丸と直通するだけに、何か特別な施設でもあったのだろうか。本丸と高さも違わず、本丸から独立させている理由がよく分からなかった。

 韮山城周辺は道が狭く、車の場合は、東の城池付近に止めることになると思われるが、地図を見ると、水堀跡を利用したと思われる用水路が江川邸から韮山高校前を通って土手和田まで続いており、これらを辿って徒歩で散策するのも楽しそうだ。また、韮山中の脇から城池への道は韮山城と天嶽の砦群を分ける堀切の跡を利用しており、そこから天嶽へ入ることもできるようだが、整備された道は無いらしい。

 

最終訪問日:2013/5/19

 

 

言わずと知れた北条早雲の出世城。

司馬遼太郎の「箱根の坂」を読んだ人間としては、やっぱり感慨深かったですね。

ここから北条氏5代100年が始まったのかと。