Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大石神社

四十七士の像が並ぶ大石神社の参道

 赤穂で大石と言えば、忠臣蔵大石内蔵助がすぐ思い浮かぶように、赤穂浪士四十七士を祀る神社。

 俗に言う忠臣蔵とは、元禄14年(1701)に起きた浅野内匠頭長矩による江戸城松の廊下での吉良上野介義央への刃傷事件に始まり、長矩の即日切腹赤穂藩取り潰し、そして翌年12月14日の浪士の吉良邸討ち入りと翌年2月4日の浪士達の切腹までの出来事を題材にした歌舞伎や浄瑠璃の演目のことである。討ち入り事件自体は、元禄赤穂事件という。

 この事件は、当時の江戸町民の深い支持を得たほか、忠臣蔵として後世にまで長く伝えられることになるのだが、江戸時代の体制下では、赤穂浪士は、忠臣ではあるが罪人でもあり、公に祀ることは許されなかった。しかし、大政奉還によって明治時代になり、幕府に遠慮する必要も無くなった庶民は、旧赤穂城内に祠を建てて浪士達を祀るようになったという。これが神社の前身となり、明治天皇の宣旨によって明治33年に正式に神社創建が許され、大正元年(1912)11月に創建されたのが大石神社である。

 創建当初は、赤穂義士四十七士と、忠と孝の間で葛藤し自刃した萱野三平を祭神としていたが、戦後に赤穂城主であった浅野家を祀る神社と、森家の当主を祀っていた神社を統合し、浅野内匠頭長矩ら浅野家3代と森蘭丸ら森家の7人が合祀された。このほか、境内には軍学者山鹿素行を祀る山鹿社を始め、八田社、恵比寿社、淡島社、忠魂社、そして天満宮、国助稲荷の7社を合祀殿に合祀しているほか、大石邸庭園に大石稲荷社がある。

 大石神社は、赤穂城の大手門を入ってすぐの大石内蔵助邸の裏手、旧赤穂城の三ノ丸の位置に鎮座し、大石邸を含めて境内はなかなか広い。訪れたのが祝日というのもあって、遠方から来た参拝客も多く、義士達は未だに多くの人に崇拝されているようだ。

 神社は、参道から四十七士の像が並んでいるほか、拝殿横には義士史料館があるなど、忠臣蔵一色で、歴史ある神社に比べて重厚さは足りないような気もするが、これはこれで解りやすくていいのかもしれない。しかし、参拝者の多さを見ていると、これだけ価値観が多様化した現代でも、忠臣蔵というのは相変わらず日本人に好まれる題材なんだなというのを実感する。忠臣蔵には、日本人に訴えかける普遍性というものがそれだけあるのだろう。

 

最終訪問日:2012/4/29

 

 

訪れたのは陽光の眩しい日でした。

そんなカラっとした気候のせいもあったのか、参道の両サイドに四十七士の像が並んでいるのは、なんだか兵馬俑みたいな中華的な印象を感じましたね。